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犬の遠吠え

今となっては昔のことだけれど、この動物園にはある犬がいた。
彼の名は「ルーフ」
どこにでもいる、普通の柴犬だ。
しかし彼は、名だたる動物達を抑え、この動物園の
「顔」になった。

「人気って聞いたからきたけど、普通の犬じゃん」
これは噂を聞きつけ来園してきた観光客が最初に言う、いわば決まり文句のようなものだ。
彼の見た目があまりにも普通だったのか、拍子抜けした声がたくさん飛び交う。
しかし間も無くして、彼らはその人気たる所以を即座に理解する。ショーが終われば、彼らは自然と称賛の拍手を送っている。

まるで映画に出てくるような、重厚で、まっすぐに伸びる遠吠えが会場に響いた。
「皆さん、拍手をお願いしまーす!」
ドッグトレーナーの掛け声の後、会場からは驚きの声と拍手が上がった。
「あんな小さな犬が…かっこいいわねぇ」
「どっから声出してんだ?」
「前世、確定じゃん」
ルーフはもう一度、大きく息を吸い、顔を上にあげる。

ウォーーーーーーーーーン

ルーフは狼の喉を持っていた。

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真夜中、ルーフはケージからでた。
逃走防止用のドアは空いている。昨日、細工をしておいた。振り返ったルーフは、十数年間育ったこの場所をじっと眺める。育ててくれた飼育員のハナ、いつも一緒に遊んでいたダックスフンドのカルラ、彼らを思い出すだけで、涙が溢れそうになる。
「ありがとう、さようなら」
彼は小さくそう言い、静かに出て行った。

声が出なくなったのは、2日前からだ。
年末最後の公演を終え、束の間の休息に入った彼はこの2日間、ほぼ声を発さずに過ごした。
ただゆっくりと起き、ドッグフードを食べ、誰もいない広々とした園内を歩き回る。
ライオンさん、虎さん、ゾウさん、キリンさんに会いに行き、そのついでにオオカミのところにも顔を出した。

オオカミは、檻の中でぐっすりと眠っていた。
「そうだ、起こしてやろう」
大きく息を吸い込み、顔を上にあげたルーフはいつもの声を出そうする。

ゲホッ!

その途端、大きくむせこんだ。
ルーフは何度も何度も試してみる。しかしその度に気管がつまり、咳き込んでしまう。
唐突すぎる出来事に、驚きが追いつかなかった。

唯一の幸いは、訓練がここから3日ないということ。
「それまでに治せば大丈夫」
ルーフは自分に言い聞かせ、小屋に戻って行った。

しかし3日経っても、声は一向に出なかった。

「声が出ない僕に、存在価値なんてない」
「普通の犬なんて、動物園にはいていいはずがない」

唐突に「特別」を失ってしまった彼の心は、焦りと不安で押しつぶされていく。
常軌を逸した彼は「夜逃げ」を決意した。


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暗い園内を歩き、事前に開けてあった職員用玄関へ向かう。
行き先はない。しかしそれよりも、誰かに失望されるのが怖かった。

「こんな夜遅くに、どこへ行く」

太いダンディーな声が聞こえた。
ルーフはハッとして、後ろを振り返る。
息が上がっているオオカミが、そこにはいた。
「どうした、具合でも悪いのか。もう消灯時間のはずだぞ」
「いやぁ、まぁ…そんなこともないんですけど…」
オオカミは規律を重んじ、飼育員には従順なタイプだ。
しかし言ってしまえば、彼は頭が固い。
だから人気がでないのだと、ルーフは心で思ってしまう。

「なんだ、何かあったのか」
オオカミはルーフに聞いた。
ルーフは迷った。実力主義の動物界ではあるが、自分は犬にも関わらず、オオカミの土俵でトップに立ってしまった。罪悪感は少なからずある。
何か義務感のようなものを感じたルーフは、思い切ってオオカミに打ち明けた。

「出なくなったんだよね、声」
ルーフの言葉に、オオカミはただ聞いているだけだった。
「遠吠えできない僕なんて、もう価値はない。実力主義の世界だからね」
オオカミは静かに口を開く。
「試したのか」
「何回もね。でも何回やっても出ないんだ。だから、もうここにはいられない。どこか遠くへでも…」

「普通は、怖いか?」

オオカミが尋ねる。その言葉がルーフの脳を揺らした。

「ルーフ、お前は特別だ。他にないものを持ってる。でも俺は、お前が特別だから好きになったんじゃない。他の動物達もきっとそうだ。出ていくことは止めない。でも、これだけは覚えておくんだ」

オオカミの言葉が、ルーフの堪えていたものを全て解き放った。
ルーフの目から、大粒の涙が溢れた。
「ありがとう、オオカミさん」
「明日のことは、また明日考えればいい」

オオカミの言葉は、全てが優しかった。
それには裏があるのかと、疑ってしまうぐらいに。

「さぁ帰ろう、もうみんな寝てる」
再び居場所が与えられた気がして、ルーフは戻ることを決意した。
「ありがとう。僕、ここにいていいんだって思えた」
「そうか。それなら良かったよ」

オオカミと僕は、並んで歩き始めた。
「そんなこと言って、本当は出るんじゃないのか?」
「出ないよ」
ルーフは答える。
「一度、やってみたらどうだ?」
オオカミは、ルーフに提案した。心が満たされた今なら、出せるかもしれない。
ルーフは大きく息を吸い、顔を真上にあげた。

ガブッ!!

大きな歯が、ルーフの剥き出しの喉元に刺さった。

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飼育員、相田ハナによる動物記録表にて

1月1日朝5時、見回りをしていた園の管理者が職員用玄関の近くで、犬の死体を発見。検証した結果、ルーフであることを確認。
ルーフは喉元だけが食いちぎられており、他は目立った外傷はなし。
発見した園の管理者釜本さんは、発見した直後、近くの小屋から大きな遠吠えが聞こえたと、話す。

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