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「そして人生はつづく」を観て


原題: Zendegi digar hich
英題:Life,and Nothing More...
邦題:そして人生はつづく

監督:アッバス・キアロスタミ(1992)

あらすじ: イラン北部で起きた大地震は「友だちのうちはどこ?」を撮影したコケール村にも容赦なく襲いかかった。監督は映画に出演した兄弟の安否を確認するため、息子を連れて被災地へと車を走らせる。(引用)

感想:なんか、本質を語ってるように感じた。

静かな、静かな余韻を残す。キアロスタミ作品は毎回そうだけど、今回は現実のことを描いてるからかさらに。

ポスターがこのシーンを選んだのは。新婚の2人が、みんな地震で亡くなってしまったから、指示する人も祝ってくれる人もいないから、自宅で式を挙げたという家。

地震で何もかも失っても、若い2人はこれからの人生が続いてる。我々はそれを監督のように傍観か話を聞くしかできない。彼らの人生は彼らのもの。自分の人生は自分のもの。

新婚の2人もそうだし、映画で関わった人たちもそうだし、どこかで密に関係した人とは、人生も交わっている。それが「縁」なのだろう。

だから、今回の被災地で会えたかつての映画出演者達は、「縁」があったから出逢えた。他の出演者たちとは「縁」がなかった。

だから、監督が車に乗ってくか声をかける人も全員じゃない。なんとなくかもしれない「縁」のある人が乗れた。人生そのものじゃないか。

手にエラのついてるお釈迦様だって、全ての水は掬えない。何滴かは溢れてしまう。その何滴かは「縁」が無かった。だから我々は掬えた掌の中の水を見つめるのだ。

「神の御加護を」が、なんかすごく入ってきた。

ワタシが今まで出逢ってきた人達。濃厚な時間を過ごした人もいれば、数回の会話しかしたことのない人、同じ空間にいただけで話したこともない人、さまざまな関係を持った人がいる。

その中で、自分が望んだ人と「縁」があればいいなあと思う。濃い「縁」であればいいなあとも思う。これは欲張りなのかなあ。

監督が「地震の話をして」と言う。話を聞くことでみんなの感傷を消化しようとしてるのかな。見つめる瞳が美しい。

アンテナを立てる青年、皿を洗う少女、カーペットを取る老女、洗濯をする女性、便器をを運ぶかつての出演者、出てくる人々みな、そばにいた誰かを失ってる。それでも、みんな生きる上での事を続けている。

何かがあっても、自分は生きてるし、時間は否応に過ぎてくし、人生は続いてるし。惨い、とも感じてしまう。辛くて苦しくて何も考えたくないのに、時は止まらない。続いてしまう。

ワタシ自身の人生も、続いてしまう。続いてしまうからには、生きなきゃいけない。何かの縁で、今この土地でこの空気を吸ってるのだから。

役者を敢えて起用しない。そのおかげで、全てがみずみずしい。特に子供達。切なくなるくらい目が輝いてて純粋で。どこの国でも子供は大事にしている。痛感。

だからこそ、子供を傭兵にやる団体が許せない。改めて感じた。子供達こそ、これから長い長い人生が続いてるのだから。輝かしい希望ある人生を導いてあげたい。そのために我々大人は何ができる?

自分に手一杯のワタシには、答えが出せない。とりあえず、子供時代の自分が今のワタシを見てガッカリしないような生き方をしなくては。


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