夜の冒険

学校に行く前、わたしは窓の外を見ながら食パンをかじっていた。マンションの窓から見える空は、雲ひとつなかった。
窓の外を、わたしの母が落ちていったのが見えた。
きっと、わたしはまだ夢を見ているんだ。

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ぼくは、通っている塾のビルの階段を下りて、通りに出た。夕暮れ時になっていた。カバンからスマホを取り出しイヤホンを耳に突っ込む。スマホを操作すると、激しいメロディーと重いドラムのリズムが鼓膜を刺激し、ボーカルのしわがれ声が頭の中に響きわたった。
周りでは同じように家に向かう生徒たちが数人ずつ固まり笑いながら歩いている。ぼくはそれを見ないように足元だけを見、大通りにあるバス停へ急いだ。

バスのステップを上がり、目で彼女を探す。いた。席を探す。今日はなんとか、中ほどの彼女のふたつ後ろの席を確保できた。もう席はほとんどいっぱいで、見たところ彼女の横しか空いていない。遅れて同じ塾の生徒がふたり連れで入ってきた。周りを見回している気配がする。彼らは彼女のとなりの席に気づいたようだった。ぼくはスマホの音量を下げ、片方のイヤホンを耳から外した。彼らの話す声が耳に入ってきた。
「お、あそこ、空いてんじゃん」
もうひとりの声が聞こえた。
「やめときなよ」
けげんそうな声が応こたえる。
「なんで?」
声のトーンが下がった。
「あの子の母親、自殺したらしいよ」
彼らはその席に座らなかった。バスは、彼女の横の席だけを空けたまま走り出した。

ぼくは気づかれないように彼女を見ていた。
後ろから見ても彼女はきれいだった。
黒く長い髪が左肩に掛かって、制服のブラウスからのぞくうなじが陶器のように白い。
次の停留所で、彼女は降りるはずだ。
降りる彼女を、ぼくはいつも見送ることしかできなかった。
バスが停留所に近づいた。バスはまだ動いていたが彼女は立ち上がった。手にパスケースを持っている。
バスが止まると、彼女は料金箱にパスケースをかざしバスを降りた。もう外は暗い。並木道の木がオバケみたいに見える。
バスが動き出した。ぼくは窓から見える彼女を目で追った。彼女は並木道の向こう側を歩いている。ぼくは、木の陰から出たり入ったりする彼女を見ていた。歩いていくその先に、彼女の家があるのだろうか。

見つめていたはずなのに、ぼくは彼女の姿を見失ってしまった。
『あれ?』
ぼくは目を凝らした。方向を変えたのだろうか。いや、この距離で見逃すとは思えない。
バスは進み続けていた。ぼくはまだ彼女の姿を探していたが、見つからないまま並木道は見えなくなった。

翌日もぼくはバスから彼女を見ていた。その日も彼女は並木道の陰に入ったあと姿が消えた。そしてその翌日も。いったいどんな仕掛けなんだろう。
ぼくは彼女の秘密を知りたくなった。
その日、彼女はいつもと同じようにバスから降りた。彼女を送り出したドアは閉まりかけていた。ぼくは立ち上がり、ドアに向かって走った。目の前でドアが音を立てて閉まった。ぼくは運転手に顔を向けた。
「すみません、降ります!」
運転手が、ため息をついた。
「降りるなら、今度からはもっと早く言ってくださいね」
運転手が手元を操作すると、ドアはもう一度音を立てて開いた。
ぼくは、降車口のステップから飛び降りた。

バスから降りたのは、彼女とぼくだけだった。
先に降りた彼女は、もう10mくらいは先を歩いている。
彼女は、歩きながら長い髪をヘアゴムでしばり、手に持った黒いリュックから黒いキャップを取り出すとかぶった。そのまま手慣れた動作で制服のブラウスとスカートを脱ぐ。その下から黒いTシャツと黒の短パン姿があらわれた。
彼女が木の陰に消えてしまうように見えたのはこれが理由だったのか。
着替え終わった彼女は、歩くスピードを上げた。
ぼくは距離を保ちながら彼女を追った。

15分くらい歩いただろうか。彼女は、大きなマンションの前にたどり着いた。階数を数えてみた。この辺りでは珍しい7階建てだ。彼女は一度マンションを見上げたあと、その周りを一周した。エントランス横のフェンスで囲われた、屋根付きの自転車置き場で足を止めた。周りを確認するように振り返る。自転車置き場の屋根を両手でつかむと、足で自転車置き場のフェンスに足を掛け地面を蹴った。彼女の体はあっさりと屋根の上に移った。彼女はそのままマンション側に移動した。すぐにこちらからは姿が見えなくなりそうだ。焦ったぼくは、自転車置き場にかけ寄った。屋根の上の彼女に声を掛ける。
「あ、あのう、何してるの?」
屋根の奥で彼女の動きが止まった。こちらを伺う気配がする。
1、2分待っただろうか。彼女が屋根から顔を出した。
「なんだ、大人じゃないんだ」
こちらをのぞき見る彼女の顔は、心の底からホッとした表情に見えた。
ぼくはもう一度彼女に声を掛けた。
「あ、あの、ぼく塾で、一応同じクラスなんだけど」
彼女が自転車置き場の屋根から音も立てずに降りてきた。腕組みしてぼくの顔を眺め、首を横に振った。
「ごめん、わたし、あなたのこと、知らないわ」
ぼくはうつむいた。
「仕方ないさ。ぼく、目立たないから」
彼女はぼくを値踏みするように見た。
「でも、ほら」
彼女がぼくに右手を差し出した。
「よかったら、一緒に来る?」
ぼくは自分も右手を出しかけたが、引っ込めた。胸の奥がざわついた。視線を彼女から外し、引っ込めた右手を隠すように体の後ろに持っていく。
「いったい、どこに?」
手を握らなかったからだろうか。彼女の顔が曇ったように見えた。ぼくはさっき彼女がしたように、自転車置き場のフェンスをよじ登った。
ぼくが登り切ると、彼女も上がってきた。自転車置き場の屋根の上で、彼女は頭を低くしたままマンションの手前側を指差した。
「こっちの端、上から下まで電気が付いてないでしょ」
たしかにマンションのこちらの側の部屋には、下から上まで明かりは見えなかった。彼女は続けた。
「誰もいないか、もう寝てるってこと。音立てなかったらバレっこないわ」
ぼくは驚いて彼女の顔を見た。
「ここを、登るってこと?」
彼女は薄笑いを浮かべた。
「そうよ。わたしも登るんだから簡単なものよ。それとも怖いの?」
ぼくは心の中を見透かされたように感じた。
「怖くないよ」
思っても見ない言葉が出た。ぼくは自分がムキになっているのに気づいたが止められなかった。
彼女はぼくを上から下まで見た。
「そうね。じゃあ、そのクツは脱いだほうがいいわ。わたしみたいなのじゃない限り」
彼女の足元を見た。彼女が足を上げて履いているクツを見せた。彼女のクツは変わった形をしていた。そのクツは5本の足の指それぞれが独立している。
「出っ張りに足を掛けるから、指が動くほうがいいの」
カバンをそこに置き、彼女が言う通り、ぼくはクツと靴下を脱いで裸足になった。
「それから、ほら、これ」
彼女はぼくにフックとロープを手渡した。
「これをベランダの格子に引っかければ絶対に落ちないから」
フックとロープは1組しかなさそうだった。
「きみのは?」
彼女は首を横に振った。
「わたしは要らないわ。何回も登ってるもん」
マンションの上のほうを見上げると、彼女は小さく叫んだ。
「さ、行くわよ!」

自転車置き場の屋根からはマンションの2階のベランダに手が届いた。彼女はあっさりとベランダによじ登った。ぼくは彼女に教えてもらったとおり、ロープを腰に巻き先に結んであるフックをベランダに掛け後に続く。ベランダのフェンスの上に立つと、次の階のベランダに手が届く。あとは同じ要領で次の階へと進む。
「以外とできるもんだね」
下から上を登っている彼女に声を掛けた。彼女はぼくを見下ろし、眉をひそめた。
「静かに。バレちゃう」
人差し指を口に当て小さな声で告げた。
ぼくは声を出さずにうなずいた。

右手、左足、左手、右足、右手、左足、左手、右足。交互にフェンスに掛けて登っていく。やっと4階まで来た。てっぺんまではもう少しだ。慣れるとマンションを登るのは予想より簡単だった。
ぼくは、4階のフェンスの手すりの上に足を乗せ、つま先立った。風が強く吹いた。足が滑った。バランスが崩れる。片手でなんとか上の階のフェンスの下端をつかんだ。
フックと命綱がぼくの体重を支える。地上が目に入る。地面までが果てしない距離に見え鳥肌がたった。あわてて彼女を見上げる。彼女は顔をこちらに向けて笑った。
ぼくも無理矢理彼女に笑顔を返した。フェンスに乗せなおした足に、重心を掛けながらバランスを取り直した。彼女は顔を上に向け登頂を再開した。ぼくも、上階フェンスを両手でつかみ、体をひきあげた。下を見ずに登り続ける。

今回は彼女は、手をさしのべてくれなかったな。そう思うとぼくは、体のまんなかが冷えた気がした。
それにしても、ぼくはどうしてさっき彼女の手を拒んでしまったんだろうか。
考えながらベランダのフェンスの上に立ち、次の階へフックを引っ掛ける。
頭の中に、ひと月前のできごとが浮かんできた。

夕暮れ時だった。ぼくと友人のふたりは、自転車で1時間山道を走り川べりに着いた。陽はついさっき、完全に山の向こう側に落ちたところだ。ぼくらは自転車を止めライトを消した。
目が暗闇に慣れるにつれ、あそこにひとつ、ここにもひとつと光の点が浮かび上がってくる。
完全に目が慣れる頃には、数えきれないホタルの光が視界を覆っていた。
「うわぁ」
友人が声を出した。ぼくは彼のその声が誇らしかった。ここはぼくの、秘密の場所だった。
草むらに並んで座ってホタルを見た。あまりゆっくりする時間はなかった。家に帰る時間が迫っている。友人が立ち上がりぼくに右手を差し出した。
「そろそろ帰ろう」
ぼくは彼の手を握った。友人が腕に力を込めると、ぼくは簡単に立ち上がることができた。

翌日、ぼくはいつものように、通学路の途中の家のチャイムを鳴らした。友人のお母さんが出てきた。
「あら、あの子、もう出たわよ」
ぼくらは毎日一緒に学校に通っていた。ぼくはイヤな予感がした。
学校に着いた。ぼくは教室のドアを開け、友人を目で探した。彼は、先日ぼくが彼に苦手だと打ち明けたヤツと、仲よさそうにしゃべっていた。
一時限めの休み時間も、その次も、そして昼休みも彼はぼくと目を合わせなかった。
ぼくはその日から、ひとりでお昼ご飯を食べるようになった。
それから1週間経ち、彼らがあの秘密の場所へ行ったという噂を聞いた。ぼくの秘密の場所はもうなくなってしまった。彼が握った手の感触がだけが、ぼくの手にまだ残っていた。

上から彼女の声が聞こえてきた。
「もう屋上よ。一番上はベランダがないから、フックはわたしが持つわ。投げて」
ぼくはフックを屋上に向けて放り投げた。7階の手すりにつま先立ちになり、屋上のふちに手を掛けた。ぶら下がる格好になった。ダメだ。体を引き上げようとするが、ひじが曲げられない。手の力が抜けていこうとする。マンションの下を見た。マンションのそばに停まっている車が豆ツブのようだ。目がくらむ。ぼくは下から目をそらし、上を向いて叫んだ。
「ダメだ!引っ張って!」
彼女が屋上から一旦顔を出し、引っ込めた。ロープにテンションが掛かった。少しずつぼくのひじが曲がっていく。屋上にひじが掛かった。ぼくはなんとか屋上に体を引き上げた。
屋上では彼女がへたり込んでいた。息が上がっている。
ぼくの心臓も、激しく脈打っていた。

息が落ち着くと、やっと周りの景色が見えてきた。
ぼくは立ち上がり辺りを見回した。ぼくらの住む町は、たいして大きくはないけれど、7階建てのマンションの、1番上から見る夜景は、ホタルの群れのようだった。

彼女は、屋上の縁に座り遠くのほうを見ていた。彼女が口を開いた。
「ここさ、うちの父親の浮気相手のマンションなんだよね」
彼女が顔だけをぼくの方に向けた。周りが暗く、表情はわからなかった。彼女は続けた。
「ここから飛び降りて死んでやろうって思って」
彼女がまた顔を夜景に向け、屋上から身を乗り出した。ぼくはあわてて駆け寄ると彼女の肩をつかんだ。彼女はその勢いで後ろに倒れこんだ。上を向いたまま動かない。
「屋上に登るたんびに、夜景が綺麗すぎるんだよね」
彼女の声は鼻声だった。
「でさ、やっぱ今度にしようって、思っちゃうんだ」
ぼくは立ち上がり彼女のほうを見た。暗くてはっきりとは見えなかったが、彼女は笑ったように見えた。

ぼくは寝ころんだたままの彼女の横に腰を下ろした。深呼吸して彼女のほうを見た。
「今度、ホタル見に行こう」
返事はなかったが、彼女のシルエットが頷いて見えた。

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