治療とその効果 第5話

ぼくは暗闇の中ベッドの上で膝を抱えていた。突然鍵の回る音がし玄関のドアの開く音も聞こえた。玄関の照明がついた気配も感じる。靴を脱ぐ音が聞こえる。足音が近づき部屋のドアが開いた。昨夜と同じ様にぼくと同じ顔が笑顔を作っていた。彼はまだ部屋の外に立ち、ぼくにのんきな声をかけた。
「どうした?こんなに暗くして」
ぼくの中が弾けた。気がつくと立ち上がり右こぶしで彼に殴りかかろうとしていた。突然ドアが閉まった。こぶしがドアに当たり鈍い音が響く。ぼくは右手を左手で押さえうずくまった。押さえた手に自分の涙の粒が落ちてくる。ドアを開ける音が聞こえた。彼が部屋の照明をつけた。ぼくが見上げると彼はまだ笑っていた。落ち着き払っているようにも見える。ぼくの横にしゃがみ、にやけた顔を近づけてきた。口から酒のにおいがした。
「自分のやりそうなことぐらい想像つくさ」
彼は立ち上がり、片手に持っていたスーパーの袋をぼくに押しつけた。
「飯だ。食えよ。腹が減ってると気も立つだろ?」
本当のことだった。しゃがんでいても辛かった。そのしゃがんだ格好のまま破るようにしてスーパーの袋を開ける。安物の弁当だ。ラップを外して割り箸を取り出し食べ始めた。彼がベッドの上に腰を下ろす。彼はあきれているように見えた。
「ゆっくり食えよ」
ぼくは無視し箸を動かしつづけた。

食べ終わった。急いで食べたので胃が驚いているようだ。ベッドに座っている彼の横に並んで座る。彼のスーツがぼくの見覚えのないものであることに気がついた。
「お前、その服はどうしたんだ?着て行ったはずのぼくのスーツはどうしたんだ」
彼は口角を上げた。
「あんなよれよれのスーツ、着てんなよ。昼休みに上から下まで交換させてもらったぜ」
片目をつぶり、さらに口角を上げ言葉を続けた。
「心配すんな、俺のカードで買ったから。要するにお前のカードだけどな」
高笑いが頭にきたが、聞きたいことは他にもある。
「会社には行ったのか?仕事はちゃんとしてきたんだろうな?」
彼は急に真顔になってぼくの顔をのぞきこむように見つめた。
「定時に帰ったけど会社にはちゃんと行ったぜ」
ひと呼吸おき続けた。
「だって、あの子に会わないとな」
彼の顔はまた笑顔に変わっていた。彼のその言葉が聞こえた瞬間、ぼくは恥ずかしさで体が熱くなるのを感じていた。彼が同僚の、ぼくの好きな彼女のことを言っているのはすぐに理解できた。ぼくは嫌な予感がした。ぼくは彼から目をそらした。そらしたまま叫ぶように言葉を発した。
「定時に終わったのに、なんで帰ってくるのがこんな時間なんだよ!腹は減るし誰かに見られたらと思って電気もつけられないし!」
時計は既に午前1時を示していた。彼はまた真顔になった。
「落ち着けよ。誰もお前の部屋のことなんて気にしてないぜ?帰ってくるのが遅かったのは理由があんだよ」
彼は深呼吸した。吐く息が大きな音を立てる。彼が大きくなったように感じた。
「デートだよ、デート。俺の大好きな、いやお前の大好きなあの彼女と飯食って飲みに行ったんだ」
同僚のあの優しい彼女の笑顔が頭に浮かんだ。彼は最後はおどけるような声で言った。
「もちろんその後もな。楽しかったぜ」
ぼくは立ち上がり彼の正面に立っていた。頭に血が上っているのを感じた。右手でこぶしを作って彼の顔に殴りかかった。彼はよけなかった。彼の左頬にこぶしが当たり歪んだ。彼は両手で顔を抑えてベッドに突っ伏した。くぐもった声が聞こえる。
「いってえな。ま、殴られてもしゃあねえか。でも俺はお前なんだぜ」
彼は顔を上げた。まだ左手で腫れた頬を押さえている。眉間に皺を寄せていたが目は笑っているように見えた。
「ちったあ喜んでもいいと思うんだがな」
ぼくは立ったまま俯いていた。呼吸が荒くなっている。彼の言葉を口の中で繰り返しながらぼくは右手に痛みを感じていた。頭の中では彼女が、ぼくじゃないぼくと抱き合っていた。

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