治療とその効果 第8話

男は、病室の入り口横の壁に立てかけてあった見舞客用のパイプイスを、ベッドの横のぼくの視線が届きやすい場所に広げ、そこに腰を下ろした。長いため息をつきながら足を組む。
10秒ほど沈黙が続いただろうか、ぼくの方から口を開いた。
「お前、知ってたんだろ?」
彼は答えなかった。反対に彼はぼくに質問した。
「おれ、いくつだと思う?」
改めて彼の顔を見つめる。3日間一緒にいたが、彼の本当の年齢はまだ聞いてなかった。彼はぼくの答えを待たずに続けた。
「今年で82だ。お前の今の歳から50年以上、寝たきりのまんまなんだよ」
吐き捨てるように低い声でつぶやいた。
「こんな体じゃ自殺もできない。両親はとっくに死んだ。見舞客などもう30年以上も来てない。おれはこの病気を研究するために生かされ続けた。おれの人生はなんのための人生なんだ?いい加減、もう解放してくれよ」
彼の声は最後はうめき声と混じり合い、聞き取りにくかった。ぼくは、50年という果てしのない長さにめまいがした。その長さを、ぼくもこれから体験することになるのか。
彼はどんな思いで耐えてきたのだろう。ぼくは出会ってからこれまでの彼の理不尽な行動を、全て許す気になってしまっていた。彼に声をかけたかった。なにを言えばいいのか分からない。力を入れて目を閉じた。また彼の声が耳に入ってきた。
「お前は、どうしたい?」
なにを問われているのか分からず、ぼくは目を開け彼の顔をもう一度見たあと、聞き返した。
「どうしたいって?」
彼は真剣な顔をしていた。今にも泣き出しそうにも見える。
「おれは50年以上耐えた。でもお前は耐える必要はないんだぜ」
言い終えると、彼は口を一文字に結んだ。
ぼくは、その言葉がなにを意味しているのか理解できた。
ドッペルゲンガーを見た者はその後すぐに死ぬことになると言う。昨晩、彼が眠りについてからネットで検索すると、そんな言い伝えが数多くヒットした。
彼は両手で頭を抱えた。体が小刻みに震えている。
ぼくは苦労して彼の方に顔を向けた。
「ドッペルゲンガーを見ると、死ぬんだよな」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
彼は顔を上げた。こわばった表情でぼくの顔を見た。目が合った。彼は声を漏らした。
「知ったんだな」
彼は、ぼくの顔から目をそらし空中をにらんだ。自分に言い聞かせるように続けた。
「そうだ。おれの知っている限り、過去に戻ったあと、帰ってきたヤツはいないはずだ」
彼はうつむき、ぼくに聞こえるか聞こえないかの小さな声で続きをつぶやいた。
「もっとも、建前では生きるか死ぬかはの選択は、当時の本人が決めることになっているんだがな」
ぼくは彼から目線を外し天井を仰いだ。彼がもう一度こちらに顔を向けた。
「ゆっくりと考えさせてやりたいところだが、おれにはもう時間がないんだ」
彼の「現在」での滞在時間は3日間と聞いている。その3日目も、もうすぐ過ぎ去ろうとしていた。
不意にぼくの脳裏に、彼女の心配そうな顔が頭に浮かんだ。
くちびるには、まだ彼女のくちびるの感触が残っていた。
「彼女はどうなるんだ?」
思わず口をついて出た。彼の顔が無表情になった。彼はイスに座りなおした。
「さあな、おれの時は、結ばれずじまいだったからな。誰かと結婚して幸せな人生でも送ったんじゃないか」
彼の口元が、笑みの形に歪んだ。
「お前がいなくなっても彼女の人生は続くってこった。ま、お前が生き続けるのなら、彼女もしばらくは付き合ってくれるかもな」
ぼくは、彼女に体の動かないぼくに50年付き合わせることを想像してみたが、それはできなかった。彼女に、無為な50年を過ごさせることは、ぼくにとっては恐怖でしかない。
ぼくは頭の中で何度もうなずいた。
「決めたよ」
ぼくの声は震えていた。
ぼくの口から出てきた言葉は、自分でも意外だった。
「このまま治らないにしろ、ぼくは生きたい。」
答えはなかった。ぼくは、同じセリフをもう一度繰り返した。

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