お隣りの親子(後編)
ゆっくりと外が暗くなり夜が来た。お隣りさんの彼女は、お昼に引き続き夕食も作ってくれた。わたしは、一旦食卓には座ったものの食べる気にはなれなかった。彼女の娘に誘われてテレビゲームもしてみた。その50年後のテレビゲームは、壁一面にゲーム画面が映し出されている。映像は素晴らしく臨場感たっぷりだったが、イライラして集中できなかった。
わたしは母子に寝ると告げた。それを聞いた娘は残念そうな顔をしていた。
用意してくれた部屋は2階だった。服を脱ぎ下着姿でベッドの上で横になった。右手でスマホをいじる。スマホが音を立てた。メッセージの着信だった。妻から「好き」を意味するスタンプが送られてきた。わたしが泊まりの出張の時のお約束だった。
どう返信しようか。少し考え、わたしも同じようにスタンプを送り返した。横になったまま左手の窓のカーテンを少し持ち上げるとわたしの家が見える。家の窓からは電灯の光が漏れていた。今日はいろんなことがありすぎた。眠れないように思ったが、わたしは眠りに落ちていた。
眼が覚めると、外はもう明るくなっていた。
スマホで時間を確認する。時間は朝7時過ぎだが画面の日付けは、女の言うとおり1週間前に戻っていた。窓から自分の家を見る。もう少しで、わたしが出勤のため家を出る時刻だ。
ドアにノックの音がした。ドア越しに女が呼びかけてくる。
「おはよう、起きてるかしら。わたしの言うことをまだ疑ってるなら出勤していく自分を見てみたら?もうひとりのあなたが、もうすぐうちの玄関の前を通るはずよ」
わたしは急いで服を着て階下に降りた。裸足で玄関に降り、ドアののぞき窓から外をのぞく。半分信じてはいたのだが声を出しそうになった。そこを歩いていたのは紛れもなくわたしだった。きちんとスーツを着込んだドアの向こうのわたしは、出勤のため駅に向かって歩いている。自分の体から力が抜けていくのが分かった。わたしは視線を落としその場にへたり込んだ。
後ろから声が聞こえた。
「どう?これでわたしの言うこと、信用してくれたかしら」
声の方に振り向く。女は腕組みしてわたしを見下ろしていた。窓からの太陽の角度の問題か、背の高い女の顔ははっきり見えなかった。彼女は続けた。
「でも、もう手遅れよ」
わたしは、女の言葉の意味が理解できなかった。
「手遅れって何が?」
「1度この家で時間をさかのぼったら、もうこの家から出られない。だってあなた、もうひとりのあなたがあっちにいたの、見えたでしょ?もうあっちのあなたが本当のあなたってことなのよ」
表情ははっきりとは分からないが、女の口元が笑みの形に歪むのが見えた。わたしは自分の心臓の動悸が速まるのを感じた。わたしは叫んだ。
「妻が浮気をしているというのは嘘だったのか!?」
女は腕組みしたまま答えた。
「知らないわ。だってそんなのわたし、興味ないもの」
女の口元はさらにつりあがった。
「わたしが興味があるのはあなただけ。あなたは、今からわたしたちと一緒に、同じ1週間を繰り返し続けて歳を取っていくのよ」
わたしの体はへたり込んだまま震えだした。目の焦点がぼやける。
「も、もどれない?」
わたしは立ち上がろうとしたが足が言うことを聞かなかった。いつからだろう、女の横には娘が立っていた。窓から差し込む光の角度は変わっていなかったが、母である女よりも小柄な娘の顔には日が当たって表情ははっきり見える。娘の顔は瞳が見えなくなるくらい満面の笑みだった。娘はわたしを指さしたまま母親の方を見た。
「ねぇ、ママ?もうお父さんって呼んでいいの?」
わたしは娘が何を言っているのか理解できなかった。女は腕組みしていた腕をほどいて娘の頭に左手を置いた。女は一度娘の方に視線を移し軽くうなずき、またすぐにこちらを見た。
「毎週毎週いろんなアプローチで大変だったわ。結局あなた落とすのに15週間もかかっちゃった。でも良かったわ、うまくいって。もうそろそろ、この子にも父親が必要な時期だから」
女は、娘の肩に手をかけ抱き寄せた。
わたしは立ち上がろうと、もう1度足に力を入れようとしたが、足は言うことを聞かなかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?