治療とその効果 第9話(最終話)
暗闇の中で、彼は泣きそうな顔で笑っていた。
「彼女はいい人だ。一日過ごしてみて分かった。お前は、そんな彼女の人生を台なしにしようって言うんだな」
ぼくは彼を見た。
「彼女にはぼくの未来を告げるよ。治らないってことも。きっと向こうから離れていくだろう」
ぼくは噛みしめるように続けた。
「ぼくは、ぼくが死んで彼女が泣くと思うほうが辛いんだ」
彼は立ち上がり、寝ているぼくの頭の横をを手で叩いた。ベッドは鈍い音を立てた。
「おれはイヤだ!」
彼は笑っていなかった。
立ったままベッドの際まで近づき、ぼくの首に手をのばした。首に力が加えられる。
ぼくは力を振り絞り、唯一動く首から上をもだえさせた。
何かが口に当たった。夢中でその口に当たった物を思い切り噛んだ。
彼が小さく叫んだ。口の中に血の味が広がる。
ぼくはそのままの状態で、感情を出さないように口を開いた。
「身体が元気な今までもぼくは自由なんてなかった。今は身体まで不自由だけど、これだけは自分で決めたいんだ」
首にかけられた手の力がゆるんだ。彼は手をほどきこちらを見つめた。彼は噛まれた左手を右手で押さえている。
彼の顔の輪郭が少しずつ後ろの壁に同化しているように見える。彼はぼくから一歩離れた。うつむいて大きなため息をひとつつく。顔ははっきりと見えないが、落胆しているようにも怒っているようにも見えた。
彼の身体の輪郭は更に形を失っていた。
「帰る時間のようだ。お前はきっと後悔する」
彼はもう一度顔を上げぼくの目を見た。
「俺が保証するよ」
彼の姿が消え、声だけが聞こえた。首をねじって時計を見た。針は0時を指していた。
おれはベッドで目を覚ました。
仰向けのまま目を開いた。まぶしいが電灯はなく天井全体が発光している。それは過去から帰ってきたことを意味していた。
治療は終わった。過去の自分は生きることを選択した。それは彼の権利だ。尊重すべきだろう。
涙が顔を伝うのを感じる。おれはこのできそこないの体で、いつまで意味のない人生を生きなければならないんだろうか。
おれは、力いっぱい目を閉じた。
左手のぬくもりに気づいた。握られている感触だった。目を開き全神経を首に集中させ、やっとの思いでそちらへ顔を向けた。手を握っていたのはおれと同世代の年配の女性だった。イスに座っておれの横に突っ伏している。着ている色あせた緑色のセーターに見覚えがあった。眠っていたのだろうか。おれが顔を向けた振動で目を開けこちらを見た。彼女はこちらを見ると満面の笑顔を作った。髪に白髪が混じり顔にはシワが刻まれていたが、おれの大好きなあの笑顔はそのままだった。
「早かったわね。そりゃそうか。あっちで時間が経ったからってこっちの時間は関係ないんだものね」
おれの頭の中に、湧き出すように彼女との記憶が形づくられていった。別れを告げたとき、大泣きした彼女に押し切られたこと。病室に神父を呼んで家族だけで結婚式を挙げたこと。50年間ほとんど毎日会いに来てくれたこと。
そして、過去行きを決めたことで彼女に殴られたこと。
おれは、今まで無かった彼女との記憶で、頭の中が埋め尽くされていくのを感じていた。
彼女はさっきまでよりも強くおれの手を握った。
「説得は失敗したみたいね。わたしは嬉しいわ。あなた、言っても聞かないんだから」
おれは彼女の声を耳で反芻した。心地良さが身体のすみずみまで満たすように伝わっていく。
おれは答えた。
「あいつ、カッコよかったぜ」
自然に口の端が上がる。彼女が声を出して笑った。
「わたしが選んだのよ」
彼女の声が得意げに響いた。
おれはこれからのことを思い、彼女の顔から目を逸らした。
「これで、よかったのかな」
あらためて彼女の顔を見つめる。
彼女はほほえんだまま頬杖をつき、軽く目を閉じた。ひと呼吸して目を閉じたまま口を開いた。
「わたしは、あなたと50年も一緒にいたのよ」
ゆっくりと、彼女の唇がおれの唇に近づいてきた。
了
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