旋律

ぼくは、道路横の堤防の上に腰をかけ、海と空を眺めていた。海は群青色で、青空は初夏独特のにじむような色をしていた。ところどころに、まゆ玉のような雲が浮かんでいる。雲のあいだを漂うように、とりどりの音符が浮かんでいるのが見えた。ぼくはタバコを取り出し口に咥えると、ライターで火をつけた。ゆっくりとひと息吸いこんだあと、煙を音符に向けて吹きかける。音符は弾け、ぼくの、聞こえないはずの右耳にだけメロディーを奏でた。
どうやら近くでだれかが死んだらしい。

初めて人の死に触れたのは、2歳上の姉が亡くなったときだった。
ぼくは父の車の後部座席に乗っていた。ジャンケンで勝った姉が助手席だ。
ふてくされて寝ていたぼくは、激しい衝撃で目が覚めた。なにが起きたかわからないうちに救急車に乗せられた。救急車の中で、父は呻き声をあげていた。姉は動かなかった。

姉の通夜の後、家に帰ると、母はぼくを、リビングの床に引き倒し蹴りつけた。
「お前のせいで、あの子が死んだんだ!」
やさしく、美しかった母の目はくぼみ、頰はこけていた。
「返せ!返せ!」
母は、ぼくを殴り続けながら泣いていた。泣きながら叫んでいた。ぼくは感情が整理できず、母に殴られるままだった。頭を殴られたあとからだろうか、母の声は左耳にしか入ってこなくなった。

それ以来、右耳は聞こえなくなった。かわりにその右耳には、亡くなった人のメロディーが聞こえるようになった。
はじめて聞こえたのは、母が泣き疲れて眠ったあとの、姉のメロディーだった。ぼくも疲れ果ててはいたが、神経がとがっている気がして、眠れないままリビングの床に横になっていた。ぼくの右耳だけに薄っすらと音楽が聞こえてきた。ぼくは、それが姉のメロディーだと直感した。か細く繊細なメロディーは、姉のイメージそのままだった。そのメロディーはもう消えかけているようだった。右耳から聞こえるメロディーと一緒に、ぼくの視界には音符が見えた。殴られ熱を帯びたぼくの全身に、音符は細かい雨のように降りそそいだ。

死者のメロディーが聞こえるようになってから、ぼくは祖父や祖母、近しい人が亡くなるたびに、机の上に五線譜を置いてペンを持った。右耳に聞こえたメロディーを、なんとかその五線譜の上に写し取ろうとしたのだ。メロディーは、人それぞれ違った。楽しそうなもの、悲しそうなもの。勇壮なものや少し奇妙さを感じるもの。スローテンポなものや、アップテンポなもの。人によってさまざまだ。ぼくはそれが、その人が生きていた証に感じた。それをどうにか留めておけないものだろうか。ペンを走らせた。
なんとか書き上げた五線譜の上のメロディーをパソコンに打ち込み、再現してみる。ヘッドホンから流れてくるメロディーは、あきらかに調子っぱずれだった。元のメロディーと、似ても似つかないものだ。何回やっても上達しない。ぼくは自分の音感を呪った。掛けていたヘッドホンを机に叩きつけた。

海からの風が強くなってきた。風は潮の香りを運んできた。青空は色を失い、海の色はもうほとんど黒に近かった。
ぼくはタバコを口に咥えたまま堤防から道路に向かって飛び降りた。大通りに向かって歩く。
それにしても、なぜぼくにだけこんなことができるのだろう。形にすることもできないのに。うつむいて歩きながら、今まで何度も問い続けた疑問を、頭の中で反芻する。
「危ない!」
叫ぶ男の声が聞こえた。
目の端に、ぼくに突っ込んでくるバイクが見えた。
ぼくは頭から地面に叩きつけられた。咥えていたタバコは、どこかにいってしまった。あお向きのぼくの後頭部と地面の間に、温かいものが伝わった。痛みはなかった。

ぼくの右耳にメロディーが流れはじめた。暗い空から、音符が桜の花びらが漂うように、いびつな螺旋を描いてぼくの周りに落ち音を立てた。メロディーは調子っぱずれだった。ぼくは、自分の口の端が、笑みの形に上がっていくのを感じた。

#小説
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