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星の名前がわからない

寒がりの彼の長袖のパジャマの肩から腕にかけてをぐっしょりと涙で濡らした後、宛もなく、何も持たず、真夜中の散歩に出た。

真夜中の、というと後につづくどんな名詞も、謎めいた、ワクワクするような、どこかアンニュイで官能的な、とにかくある特定の人たちを惹きつけてやまない言葉に変身するから不思議だ。

しかし真夜中の散歩のその実情はどうだろう。特に今の季節、真夜中の気候は爽やかが行きすぎて涙を流しつづけるには幾許か非情なように思う。

穏やかさも爽やかさも変化を拒むなら冷徹なこととあまり変わらない。

拒んではいないのかもしれない、ただそこにあるだけなのかもしれない。いつも理由を聞きたがるわたしに彼は、「その"なんで"というのをやめてみたら楽になりますよ」という。

わたしがどれだけ悲しくても、「その悲しみは、悲しみを生み出す心は、あなたではない」「心から距離を置き、考えていることから焦点を外しなさい」という。わたしがどれだけ涙を流しても、彼はわたしの肌を、ただ手近なところにいるから猫を撫でている、という風に延々と撫でるのみである。

何にでも理由を付したがるわたしに「起こること全てに因果はない」という。これには同意する。連続性は錯覚だろう。

それでもわたしという人格は(きっとそんなものも本来は存在しないまやかしなのだろうが)、言葉を紡いで物語を編み心をすくってきた。月や星、花にも心があるという物語がわたしをすくってきた。歌を唄うことよりもずっと言葉の手触りや織りなす色に耽溺することで、心は生きながらえてきた。

その必死ですくってきた心がわたしではないとすればいったい。この世で人の心をすくいつづけている夥しい数の物語はいったい。全ての人の心がその人自身の心ではないとすればいったい。

宇宙はいつか熱的死を迎えるらしい。私たちの身体の中もまさしく宇宙そのもので、心臓という太陽が、脳みそが血管がその他の内臓が骨がなんやらかんやら全ての恒星に擬えられそうなものたちがぜーんぶぜんぶ燃え尽きるまではエントロピーを増大し続ける。胃や大腸の中を覗いたってそこにはクラクラするような宇宙が広がっているんだろうな。そしてその宇宙を内包していると思われる体もその外側から見れば秩序を乱すそのものである。

宇宙を構成するものは何もかもが無に向かってひたすらにもがいているといったって過言ではないだろう。

「抗うのをやめてみたら」

彼がいう。私たちの存在が、無への抵抗であるのに?

彼はわたしがやさしくしてほしい時にこそ、真実を穏やかな口調で説く。今わたしが、どこにいるのかをただ指差し、そしてその後で、どこにもいないわたしを抱きしめる。研ぎ澄まされた刃物のような鋭さの、まあまあ大きな鈍色の、三角錐の先をためらいなくわたしの背中に突き刺して、なんともない顔で澄ましている。

わたしたちはどんなに暗闇を歩いていたって自分より濃い影をつくる。それは光によって生み出されたのだとしても、歪んでいて、とてもその対象を正確に象っているとは言えないのに、わたしたちは永遠に自分を捉えることができないからこそ、あまりにも気が遠くなるほど遠いところにある影に縋って、引き寄せて、引き連れて、歩いている。

わたしたちはどこにもいないのに。

影を見ながら歩いていたら、黄色い花が一輪、落っこちてきた星のように咲いていた。わたしたちは影を落とす。それでもその花にはなんの影響も与えない。田んぼの横にくっついた水路の段差が電灯に照らされて、澄んだ湧き水のようにキラキラしていた。わたしたちの瞳に光を跳ね返して、それでもその眩しさは何の影響も与えない。

俯いても、耳を塞いでも、この世界はあまりにも綺麗なもので溢れかえっていて、上手く息ができないと思った。言葉は月や星の光の一筋、物語はその事象を編み直した神の遊びの真似事。わたしたちは星だ。星だった。光り、燃え、影を落とす星。

上手く息ができなくても、ちゃんと身体が覚えていた。呼吸の仕方を心が忘れてしまっても、身体がちゃんと覚えているから大丈夫、安心して、忘れていいよ。

星の瞬く夜空を見上げて、誰かが名付けた星座の名前を思い出そうとしたけれど、寝そべった怠惰な砂時計とカシオペア座、金星くらいしかわからなかった。

わからないけど見上げていた。わたしの名前を忘れても、あなたの名前を忘れても、大丈夫。いつか熱的死を迎える、波の中のちいさなあぶくにしかすぎない。

わからないけど知っていた。あの星に向かって歩けば、大丈夫。夜の海をわたしにむかって掻き分けて進む、宛もなく歩く。

あのちいさな星、
光り、燃え、影を落とすだけの星。

紛れもないわたし、
紛れもないあなた、
あのちいさな星に向かって、
真夜中をただひたすら歩いた。

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