古墳の治定と日本の歴史。

古墳の治定にかかわったのが、本居宣長をはじめとする国学者というのがわかった。また、その国学者たちの中には、国史大系の編纂の際、その蔵書が底本となったり、またその弟子たちが編纂をしていたり、日本史とりわけ古代史においては、その研究の基礎となった人たちであるというのがわかってきた。

つまり、現在の予想としては、日本のイメージとか概念のもとを作ったのは、この江戸時代後期の国学者の研究だと思う。

平田篤胤の復古神道は、尊王攘夷思想のもととなった思想でもあるから、明治維新の基礎となった考え方。

この国学っていうのを調べると、私が知りたいことがわかるのではないかな、と今想定している。

今、私の知りたいことというのは、なにが日本らしい、ということなのか、ということ。

で、この日本、というのがどこで出来たのか、どういう思想のもとできたのかというのを調べたらいいのかな?と思っている。

最初は、どの古墳がどの天皇の古墳かというのを調べて、間違っているかもしれないけれど決めた人たちが、その基礎になったのかな、程度に思っていました。

が、歴史上の学者あるあるだけれど、その時代のそれっぽいことは全部網羅していた。つまりは、日本の歴史の基礎研究も同一の人たちだった。

考えてみれば、古墳も歴史の一部なのだからその流れを組んでいておかしくないけれど、考古学と文献史学というのは私の中では、別研究の認識がどこかであった。ともかく、知りたいことはこの方向であることが調べるほどにわかっていく感じがする。

まずは、最初の方針とおり、古墳の治定がどのように進んだのか調べたいと思う。そういう資料や研究はおそらく進んでいるんじゃないかなと思う。

次に、国学という学問について。国学者で一番有名なのは本居宣長で、教科書でその著作の古事記伝には赤線を引いていることから、古事記、日本書紀を国学ではどう解釈しているか、そもそも古事記日本書紀を理解する。

さらに、国学から復古神道が出てきているので、神道も。明治維新で神道は国家神道のみになる。そういえば、ずっともやもやとしていたことがようやく疑問となった。

キリスト教や仏教にはいろんな宗派があるのに、神道には宗派がないように見える。神社庁というのがあるし、昔勤めていた神社の神職さんは、國學院か皇學館の大学の出身者出身者(神職の資格が取れる大学はこの2校だけらしい)で、全国どこの神社でもその資格で勤めることができる。どこでも勤められるといっても縁故採用が大半で、どこも半分身内みたいな感覚のところが多いので、どこの息子がどこの神社で今修行しているっていう話がポンポン飛び交っていて、資格さえあればどこの神社でもいいんだというのを知った。天照大神が祭られている神社でも大国主大神が祭られている神社でも勤めらるというか、勤める。神道ってやっぱり不思議。これも、国学からの流れがある宗教かもしれないので、神道っていうのも気になる。

さらに、尊王攘夷の思想のもとになっているのであれば、水戸学も軽視できない。そもそも歴史の基礎研究になっているのであれば、大日本史を編纂している時点で、国学と水戸学の相違点というのも見つけなければならない。水戸学が関わってくるのであれば、水戸光圀関連で、儒学の影響がでてくる。復古神道が儒教と仏教を排除した考え方なのであれば、儒学を知らないと話にならない。

思想というよりも文献学に徹していたと思われる塙保己一の研究も気になるところ。群書類従だって、古代史を勉強するうえでなくてはならない資料すぎる。

今あげられるだけで、6つの方針がある。古墳の治定、古事記・日本書紀、神道、水戸学、儒学、塙保己一の研究。どれも関係が深すぎるといえば深すぎるし、それぞれが闇のように深い分野でもありそうで。

とりあえず、表層的にでもしらべていくことから始めると、色々納得していけるかもしれない。いまだに、かもしれない、だけれども。



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