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真面目という滑稽さ。

真面目という滑

大河はほぼ毎年見ている。
流し見程度の年もあれば、平清盛などは2度3度と繰り返すくらい見たりもする。
大河とひとくくりにするけれど、好みじゃないものもあるから仕方がない。

真田丸、もちろんみている。
同じ三谷大河の新撰組は、ちょっと実は好みじゃなかった。
新選組好きが高じてなのか、どうにもううんんんんん、、、となってしまうところもあったのかもしれない。

真田丸は、かなり楽しく見ている。
真田幸村をあまり知らないからかもしれないけれど、ほどよく面白い。

その中でも注目しているのは、真田信之の大泉洋。
どちらかという不真面目とかちゃらんぽらん、なイメージが強いと思っていた彼がまさかまじめを絵にかいたような人物を演じるとは、とびっくり。

でも、信之を演じる彼を見ていると、私の中での大泉洋のイメージが不真面目とかではなく、少しずれた人というイメージであることが分かった。

真面目にやり過ぎるから、面白い真田信之と面白いことをやり過ぎるからちょっとうざい大泉洋のキャラクターが見事に私の中でははまっているというか。

大泉洋が演じると、真面目も滑稽だということがわかった。

ん?真面目って滑稽なの?

真面目とは、本気であること、冗談じゃないこと、誠実なこと、あたりが意味として挙がってくる。

じゃあ、真面目な人とはどういうひとなのか。
世間的に間違ったことをしない人というイメージを持った人。

つまり、世間というか自分にとって都合の悪いことはしないというイメージ。

言葉だけ取れば、間違っていない。
けれど、何か実際に行動を起こすと、何かが違う。

例えば、真田丸第2話で、高畑淳子演じる母親に、農民に扮装させるために『母上は誰よりも高貴なお顔立ちですから念入りに泥を塗らなくては』と丁寧に泥をぬるような、
違和感からくる可笑しさ、滑稽さ。

これが、いいようにあるいは自分には関係なく起これば滑稽だが、
自分に災いが及ぶと、他人は真面目であることを批判する。

どうして、自分の思った通りに行動してくれないのだと。

真面目であるひとは、彼ら彼女らの機嫌を損ねないために我慢をしなければいけないのだろうか?
真面目な人間は、ひとはなかよくなければならないという信念を忠実に守ろうとしているだけなのに。

そして、真面目という誠実が、行動ではなく他人に向けれられるから、
どんどん真面目の罠にはまっていくのだと思う。

そして、行動に対して不真面目ににもなってしまうという、矛盾が起こる。

真面目さとは、自分の大事なもの大事なこと、大事な人に対して行うべきことなのだと思う。

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