重さ。

幕末とか明治初期の思想というか考え方を調べようと考えながら、

大河ドラマおんな城主直虎を見ていて、考え方の根本として気になることがあった。

網野さんの本も読んで思っていたけれど、命の重さが今の私とはちょっと違う。

どこからか、日本の命の重さが変わっているように思う。

人間って、生きることが基本で、その上に考え方があるのかな?哲学はいまいちわかってないのだけれど。

生きていくとか長生きするが、今では想像できないくらい難しかった時代。

命の優先度が低いというよりも、命を長らえることとかに期待していなかった時代というか。

今、月9でコードブルーサードシーズンをやっているけれど、セカンドシーズンだと緋山先生が医療訴訟問題起こしてたのを思い出した。あの4人の中で、一番色々人生の難題が降ってくるキャラクター。

で、少なくともあのお話の先生たちは、緋山先生をはじめてめっちゃくちゃ真剣に命と向き合って、懸命に命を救おうとした結果、救えなかったうえに、訴訟を起こされちゃって、なんでこんな事が起っちゃうんだろうって、あの話を見ながら結構真剣に考えてたなと思いだして。

私も患者の家族の立場だったら、こんなこと言うかもとも思うから医療訴訟について批判的な意味で言うのではないけれど、

命は救える、頑張れば命は救えるはず、科学進歩してるんだから。

って訳も理屈もなく思っているのが今何だろうなと思う。

で、それこそ、中世の大河ドラマだと、殺し合いもそうだけれど

頑張ったって、死にそうな状況になったら基本死んじゃうし、なにもしなくても死んでしまう。死にそうな状況で死ななかったら、それは神様の何かの力が働いているんだと思うしかない。

って感じがする。

大河ドラマに、ゴクウというキャラクターがいるのだけれど。龍雲党のなかの一人に。その名前の由来が、人身御供。わたしも実は知らなかったけれど、私の知っている言葉では、人柱。要するに、神様に捧げる命。

そのゴクウは、人身御供という役目を与えられて、海に投げ捨てられたけれど運よく生き延びたから、ゴクウという名前らしい。

中世、神様に捧げる命をどう選んでいたかはよくわからないけれど、一番最初に選ばれるのは、自力では生きていけない子供だろうと思う。

おそらく何らかの事情で、両親がいない子供は、その村のお荷物だっただろう。

そういう命が選ばれる。

命が不平等だった、といわれるけれど、命が不平等というよりも命は軽かったんだと思う。

中世にもし、救命救急があったとしても、ほとんどの場合訴訟にはならなかったと思う。まぁ、どっかの大名の死に立ちあった場合、死ぬしか選択肢はなかったと思うけれど。それを含めて、命が軽い。

命が軽いから、お金で命は買えた。

でも、その代わりに重たいものがあったように思う。

何となくだけど、予想として、いい言葉かわからないけれど、

命よりも使命が重かったのかな、と思う。

命なのだけれど、自分も他人も平等に軽かったけれど、

使命も自分も他人も平等に重かったのが明治維新より前なのかな。

で、明治維新後、西洋の文化が入った時に、他人というか集団の使命と命が重くなったことが、明治維新によって変わったことかなという気がする。

で、なんで日本が太平洋戦争をあそこまで悲惨なことになった理由のひとつが、もともと軽かった自分の命が集団の命と使命がより重くなったことによって、さらに軽くなったこともあるんじゃないかと、

終戦の日が近い、このごろ思っている。

使命っていうのの、定義というか意味というか、私が言いたいことがうまく説明できないけれど

こういう死に方をしたら、本望だろう。

の本望、が大事にされていたんじゃないかな、くらいに今予想している。

これが、価値観の底辺に流れているかもな、というのを少しずつ調べながら思う。


で、戦後あまりに集団の命と使命を重くしすぎたために、今は集団の命を重視してはいけないという価値観があるのかもしれないと思う。それと同時に、自分の使命も軽いまま。でも命は科学の進歩で重くなりでも、自分の命は軽いまま。

戦争を行う上で、集団の命と使命が重く、個人の命と使命が軽いのは必要な要素だった。でもそれを長く続けることはできない。なぜなら、それは燃料補給がない機械のようなものだと思う。

個人の命と使命は、集団にとって燃料。重すぎても軽すぎてもバランスが悪い。

ただ、自分が自分の命と使命を大事に思う。

自分が隣の人の命と使命を大事に思う。

自分が自分を構成する集団の命と使命を大事に思う。

そのバランスをもう一度、今考えなす機会かなと思う。


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