最悪の事件の、終わりの始まり。

朝起きて、ついていたテレビの中を駆け巡る救急隊員の様子は20年経った今でも、奇妙に鮮明に覚えている。

その日はちょうど、春休みの始まりですこし遅く起きた朝。

まだ寝ぼけた頭で、少し落ちてきた視力。顔洗う前のその数分間、私は

『地震の時の振り返り特集でもしてるんだな』

と思ったのだった。3月20日の朝で、その時の始まりの1月17日からは約2カ月たったその頃、頻繁にしていた阪神大震災の映像だと、最初に見たときは思ったのだ。

ご飯を食べながらだったのか、妙に目についた『東京消防~』という文字を見つけて、なんで東京の人も神戸に行ったんだ的なことを口にしたのだと思う。それで、母が私が勘違いしていることに気がついて、これは地震の話じゃないよ、今東京で大変なことが起こってるんだと、テレビをよく見るように言った。


これが、地下鉄サリン事件の私の記憶。そこから初めてオウム真理教という名前を知り、かの教祖が逮捕される2カ月間は、世界はそれ一色だった。その名残は祖母の家に残っていて、悪趣味なことだが、数年前に亡くなった祖父がそのころ敷地内に建てた祖父の隠れ家的な離れは『サティアン』といまだに呼ばれている。

我が家というか、私と母方の縁者にはこういう悪趣味なネーミングセンスや感覚を持っているものが多い。

それはおいておいて。

そこから20年かけてほとんどの事件関係者が次々につかまっていった。この事件を持ってして、私はこの国で悪さをしても逃げ切れないのだと、感じた。

同時に、この事件がどれほど世界を震撼させた事件かというのはいまだによくわからない。

そもそもにオウム真理教=地下鉄サリン事件であり、それ以外の事件についてはあまりニュースの記憶がない。子供だったのだ。それでも、オウム事件が自分の何かに影響を与えたんだとは思う。

まず、宗教というものというか信仰というものはいけないという感覚がどこかにある。

90~00年というのは、どこか信仰の時代じみていると思う。

最初に思いつくのは、エヴァンゲリオン。今もだけどこのアニメのファンは、どこか信仰に近い気がする。中毒性があると思う。それにビジュアル系バンドのブーム。ビジュアル系いうのが正しい表現かはわからないけれど、そのファンたちの様子はまさしく信徒のそれだった。

そこに、近づきつつもどこか染まりきれない、踏み出しきれない自分を感じて苦しかったのは、信仰に対する恐怖心だったのかもしれない。信仰することによって、すべてを捧げかねない自分の本質と捧げた先、自分は他者を顧みないかもしれない恐怖がある。

鬱で、大卒で入社した職場を1年と数カ月で退職したあと、ひたすら眠る生活がひと段落したときに、オウム事件を調べ始めたのはあの時は何となくだった。

けれど、今思うと、道を踏み外した自分がそちら側に踏み出していないかを確認する作業だったのだ。そして、結局林郁夫の自伝を読み、わかるようでわからない屈折した綺麗で読みやすい難解な文章を読んで、『私はそちら側に踏み出すこともできなかったのだ』と思った。その感覚で納得して、地下鉄サリン事件以外の事件を調べずに終わった。


春先に、死刑囚が移送されたというニュースを聞いて、今年終わりにするつもりなのだとニュース解説を聞かずとも思った。平成最悪の事件は、平成最後の年のうちに何とかするのだ。この国の国民性は、そういう感覚がある。境目をとても大事にする。境界線の民族だと思う。島国だから、境界線は皆が理解するから、境界線は絶対のルールなのだ、と思う。

異例の執行。

それはそうだ、異例の事件。

死刑に賛成か反対か。死刑制度ある国はそれほど多くない。

私の中で、結論はでていない。それでも今回の件でとりあえず死刑制度の私の中での反対意見としては

死刑は市井の人間の娯楽

という機能がどうしてもあるということ。死刑囚の刑が執行されること、被害者家族の反応、そういったものが大半の関係のない市井のひとにとって娯楽となってしまう。

もちろん、抑止力でもあると思う。でも制度の成り立ちを考え、現在のワイドショーを見るにやはり娯楽で、ショーなのだ。

おそらくあの教祖は、改心することはない。裁判記録を綿密に読まなくても少し熱心に書いてある記事を読めば、なんとなく思う。そういう人物になってしまったことに対する同情はあるけれど、私は私が生き抜くためにかの人物は世界から排除したいと考えてしまう。

それは合法的な殺人で、合法ということはこの国の主権者たる国民である私が殺したということである。死刑制度を持つ、死刑が執行されたということは、その国の国民はみな人殺しであるということ。

それは死刑制度に反対する十分な理由になると思う。私は人殺しになりたくはないから。

でも、私が生きていくために、私の大切な人の命が守られるために、それを脅かす存在を排除するのは当然、生き物として当り前という感覚をそろそろ復活させるべきかもしれない。

世界のすべてのひとと仲良く、意見を同じくして生きていくというのはもう夢ものがたりだということはそろそろ気づいてきた。

妥協しあって、騙し騙され、競い合って生きていくしかない。その中で、時には害のあるものを排除し淘汰もしていかなくてはいけない。

平成は、夢物語の時代だったのだとおもう。

就職氷河期、失われた時代、マイナスな言葉が並ぶ時代だったけれど、それまでの貯金を切り崩してなんとか夢物語を実現し体裁を保ってきた。

でももう、消費しつくしてしまった。

近隣の、常識の通じない国々は常に、武力をちらつかせている。経済的にもすぐに立ち行かなくなる。

大事なものを守るために、自分の害になるものは排除する覚悟が必要なのだ。排除することに慣れていなすぎて、つらいけれど。

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