明治、いしん

明治維新といえば、坂本龍馬とか高杉晋作とか、新撰組とか松平容保とか、大久保利通とか西郷隆盛とか、大政奉還とか戊辰戦争とかそういう、クーデターとか国内戦争とかそんなイメージしか歴史を専門に学んでも思いつかなかった。

そもそも、そういう幕末の動乱っていうものになんとなく憧れとか興味とかそういうミーハーな部分もあって歴史を学び始めて、滅びの美学というかほとんどの歴史上の人物といわれる人たちは、幕末の動乱のあと数年ののちに命を落としてしまう。

だけれど、江戸幕府がなくなって、世界を相手に日本として立ち上がったのが明治維新といえるかもしれない、ということに、大学4年のときはじめてきがついたのだ。

世界を相手に、日本として立ち上がった、ということを日本を自分で定義してこういう国ですと、伝えなくてはいけない。

その時に、当時の一等国はみな、歴史を持っていた。日本にも、歴史があったけれどそれは、もしかすると曖昧模糊として日本に住む人たちが共有するものではなかったかもしれない。

明治維新とは、日本とは何かを決め、日本人らしいということを決めてしまったのではないか。

そう思える、講義に大学4年の時にであった。

半年の講義だったけれど、その一つに歴代天皇の古墳の選定というのがあった。

古墳は、明治時代に百数十代の天皇を選定した。確実にその古墳が正しいと実証されているのは、数基しかない。

という事実を知ったときだった。

日本の歴史を決めたのは、明治だったのではないか?

こう思えたのは、歴史とは、事実の積み重ねだけではないと思い始めていたというのもある。

ある事実は、のちの時代の価値観によって前にも悪にも変動する。

明治時代は、歴史を混沌の中を自分たちの理想を元に、定義した、といえるのではないか?だとしたら、日本人らしいとは、明治維新を学べばわかるのではないか、と思った。

と同時に、もしいま、私や私だけじゃなく今生きづらいと感じているのであれば、新しく歴史を見返して、もう一度日本を定義しなおすことで、

少しは、生きやすくなるのかもしれないとも思った。

それはすごく面倒で、手間がかかることのような気がするので、今まで手を付けてこなかったけれど、現状のっぴきならないくらい、追い詰められている気がするので、ここらで始めてみようと思って、つらつらしている。

つらつらしながら、今後書かなければならないことを、思考している。

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