どう嫌われるかが人生だ。

・・・30歳すぎてなにいってんだよ、って感じですが、ちょっとしんみり思ってしまいました。

数年前にベストセラーになった、アドラー心理学の『嫌われる勇気』とか心理学関係の本とかを読んだりしてなんとなく、理解していたけれど、好かれる努力じゃなくて、どの部分で嫌われてもいいかを選ぶのが結局人生の選択なんだなとようやく理解した。

昨日、人生の先輩で、まぁ人格者ってこういう人のこというのかもな、というような温厚なひとが、『あのひととは徹底的にあわないんだ』という告白を聞いて、いくつになっても許せないひとっていうのはいるんだな、とようやく実感したというか。

成長したり大人になったりした、なんとなく他人のことを全部許せるようになるんじゃないかと思っていたし、どこか他人が良ければ自分のことを後回しにしておけば、人間関係が円滑に進めば多少のことは自分の中でなかったことにすればいいなぁと思っていたけれど。

つまりは、自分が嫌だなとおもったことも忘れてしまったほうがいいし、いつか嫌だなという感情は、感じなくなるのがいい大人だと思っていたけれど。

ちゃんとした大人でも、嫌だなって感じていいんだなと思った。

その人が合わないんだ、といった人にもいいところがあるし、それもその人もわかっていると思う。それでも嫌なんだと思う。

たとえば、真面目にコツコツとこなしていて時間に正確に処理をする事務員にとって、時間なんて関係なくお客さんの要望だからと別の仕事を優先させようとする営業さんは、その事務員さんにとってストレス以外のなにもでもない。

でも、そういう営業さんのほうがお客さんの事情をよく知っていて、社内にどれくらいの無理だったらかけられるかもわかっていたりするし、結果的に会社のためになっているし、会社のためになるってことは巡って、その事務員さんのお給料にもなるわけで。

そんなことを考えていると、私はずっと他人のこと嫌ってはいけない、誰からも好かれなきゃいけないと思っていたし、できるだけ初対面のときはいい印象を与えなきゃいけないと思っていたけれど。

それって、ただの八方美人で。

正直、つまらないし、何も残らないのも感じていた。それでもまぁいいかとあきらめかけていたけれど。

最近の政治スキャンダルで、二重国籍の人とか重大な組織的隠ぺいをしたんじゃないかといわれている政治家の人のニュースを見てると、

自分のアイデンティティって重大だなって思う。

二重国籍で、たとえ法的には国家スパイの疑いをかけられても、二つの国のダブルであることを主張されたほうが私はあの人のことを信用できたし、そんな承認してませんと即答で全否定して、その決定の意味を理解してなかったと思われるよりはのらりくらりと、調査させていますと結果を保留にしたほうがその職務にふさわしい人間に見える。

だから、誰に嫌われても何を言われても、貫く意思とかアイデンティティとかないとやっぱり、人生って生きにくいし、それを決めていくのが人生で、

やっぱり私の人生ははじまってないと感じてしまう。早く始めないとね、てか30歳すぎていうことじゃない。っていうのは、ここにかかってくる。


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