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海って言うから #5

「すまんすまん」

袋の中身が傾かないように、上下動を抑えた歩き方で男がコンビニから出てきた。

「すごい迷ってたね」
「海で何食べるかって重要じゃない?」
「何買ったの?」
「焼きそば」
男がニンマリ。

「海っぽいやろ」
「どこで食べんの?」
「うーんと」

港までの帰り道を眺めて刹那、男は固まる。

「防波堤で座って食べよう」
「全然考えてなかったじゃん」
「ハハハ」

愉快そうに男は私の前を歩きだす。

能天気なこの男と好対照に、私を取り巻く状況はもうさっきまでと違う。
しかし、何の道筋も立たない。さっき急に訪れた大ヒントのおかげで晴れたはずの私のモヤモヤは、第二章に突入したに過ぎなかった。

来た道で膨らみっぱなしだった気まずさも、もはやどうでもいい。
前を歩く男の表情なんて、なんでもいい。

私はどんな気持ちになったらいいの?

バギーの偽装は明らかになったものの、明らかなのはその事実だけ。確かに、情報として手に入れはしたけど、それは私の手札と言うにはあまりに得体が知れない。
むしろ、こいつが私を混沌へと誘い込んだ者に他ならない。

まるで知らないどこかの海にでも突き落とされたよう。息は苦しくて、どっちが上でどっちが下かもわからない。
浮かび上がる術も、もがく甲斐もない。

松林では、さっきまで過疎な野球をしていた子供たちが、堤防の上を一列に歩いている。堤防の裏側は、同じ高さくらいに積み上げられたテトラポッド。
もしそっち側に落ちたら、打撲じゃすまないよ。純粋に危ない。
何がしたいんだろう。

「子供ってすぐああやって高いとこ登るよな」

なぜだか嬉しそうな成人男性。

「俺も昔はあんなんやってたんやろうなあ」

バギーは私と正反対に、子供向けの優しい眼差しで共感を示す。

そんな変なことには共感できるのに。
水中の私は体裁なんて知ったことかとばかりに漏らす。
それなら。
もう止まらない。
それなら、なんで私はこんなところにいるの?
なんで一人なの?

海に落ちた時点で、少女はすでに疲れ切っていた。実際のところ、今日という日が始まる頃にはすでに。
昨日の思案を引きずり、新加入の負い目に項垂れ、群がる透明を敵か味方かわからぬままに一身に受けて。

私を振り回してばっかり。

最後に吐いた言葉も、ただの一呼吸と何も変わらない泡になって、体から離れていく。そのまま水面へと加速する。
まるでそれが地球の生理現象であるかのように。
コンクリートに立つ少女は口をつぐんだまま。ただただ先頭について行くだけ。大きめのサンダルに砂の入るのも気にしない。

景色は、それはそれは青い。でも、それは今だけじゃない。この少女が、たとえ笑おうが、息絶えようが、関係のないことなのであった。
もちろん、少女は全身全霊、その命を持ってここにやって来た。そして、全てのエネルギーを燃やしたのであった。
この海や空は、そういった浮き沈みや生まれ変わりには、何度も居合わせたはずである。
それでもずっと同じ格好をしていたのだ。
こだわりなど何一つ持っていない。こんにちはもごちそうさまもない。

トンビが青を裂く。裂けども裂けども青い。
このトンビが仲間かどうかは、少女の見方次第である。景色とも言えるし、命とも言える。
ただ、おそらく少女は、このトンビと次少女が出会うトンビとの区別などつけられない。
それは、なぜか裁かれる命からすれば、たまったものではない。

そう、たまったものではない。自分には確かに血が通っているのだ、と。
しかし、このトンビだって同じ罪を犯している者に違いない。高みからいつも通りの景色を見下ろす。
こうなれば、陸だって海である。
結局は自分だけが命なのだった。

トンビが鳴いて、こだまする。
それが怒りとも悲しみともつかぬ少女は、目だけで追って、また歩きだす。

くしくも、ここにある全てが、美しい景色である。

少女の異変に気づいてか否か、振り向いた男が顔を覗く。


私の視界の左上に男の顔がある。目が合うとバギーは、お!と目を見開いた。いつ足を止めたんだ。いつから覗いてたんだ。あと、いつの間にセーター脱いでたんだ。様子見で、ん?と返す。

「いや、なんかあったのかなって、ちょっと」
「別に。なんもないよ」
「え、あ、そう。え、ホント?」
「ホント」

心配ないよ、と微笑み返す。
伝えつつも、思い返すと確かに、心配されるだけの放心状態だったな、と。バギーの気づきは自然だった。
そして、それにしては挙動やら間やら、こっちが恥ずかしくなるくらいぎこちなかった。
なんでだろう。
なんで、こんなやりとりすら自然にやってこなかったんだろう。
自嘲込みで苦笑する。

見つめあってもいないのに、矢印が刺さったように、私は苦しかった。

「おー、いっぱいいる」

堤防の裏を覗き込むバギーは、打って変わって、無邪気だった。逃げるようだな、と指差してこっそり笑うのは、これまた、胸が苦しかった。

「何が?」
「うーん、なんだろ」
いっぱいを見つめたまま考え込んで、
「多分ウミネコ」
と、首を傾げた。

「いや、そんくらいなら判別できるって」
「ああ、そう?」

どこか不服そうに堤防を離れた。見て取れる気分の上下が、子供のように激しい。

「バギーさん、他誰もいないから気抜いてるでしょ」
「え?」

想定外、と目を見開いてしばらく固まると、やがて落ち込んだような吐息が漏れた。今度は無邪気と程遠かった。

そういえば、松林はすでに終了していて、目の前はさっき一列で辿った細い道。もしくは、対岸の歩道へと続く横断歩道。
堤防を離れたバギーは、堤防沿いの道ではなく、信号待ちを選んだ。流石にね。

タイミングは悪く、どうやらさっき赤に変わったばかりだった。
横に並んで、二人車道に正対する。周りには誰もいない。
車道の信号は赤に変わる気配もなく、当然のごとく車がビュン。またビュン。ビュンビュン。空いてブオーン。

長い。沈黙。
それは、ちょうど二人のエネルギーの波が同じ位置をたまたま通過しているような。

「ロイさん」

さっきの無邪気をそもそも自分のものでないかのように遠ざけた男はずっと、車のやってくる方向を眺めていた。片手で押さえた帽子のつばが男の顔を少しだけ隠している。

「俺今日ロイさんしか誘ってないのよ」

え。ちょっと。

ビュン。ビュンビュン。

真顔のままこっちを向いた男は、言葉を探す私とのにらめっこを続けている。

ビュン。バサバサ。

いつの間にか堤防の上にいた、白い小さな鳥の群れが、一斉に飛び立った。
振り返って男が指差す。

「あれ、ウミネコであってるよな?」
「ちょっと!」

わざと作ったような温度差を受けて男が笑う。愉快そうなのはやっぱり鼻につく。

「ダメ?」
「ダメ!」
諦めたように下を向いてもう一度笑う。

「いいわけないでしょ」

嗜めるはずの私の声は少し笑っていて、ガックリ。
ああ、最悪。こんなはずじゃない。絶対怒ったほうがよかったのに。
全然思った通りにいかない。

「ですよね」

思わず笑った私に、男が調子づいたような気がした。もうダメだ。

「歩きながら話します」

信号は青に変わっていた。男が先に歩き出す。
怒りを表現しておきたいタイミングでできず、そもそも怒ってしかるべき時にさほど怒ってもいなかった私は、どうしようもなくトボトボとついて行くだけ。

風が止んで、鳥の鳴き声が響く。

気がつけば、海の臭いにはもう慣れていた。


ウミネコって言うからてっきり猫かと思ってた。

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