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心地よさの証明(令和版:Yahoo!チャットって場所があったんだよ)

 「Yahoo!チャットで釣った女は食えるってきいてさ」

 おもわず、耳を疑った。

 「はい、コレおまえの」と手渡されたヘルメットをかぶった矢先で、ほんとうに聞きミスったのかとおもった。男は続ける。「バイオレンスだよね」と。いったいどういう脈絡でそう言うのかわからなかったが、ときどきその台詞を挟んでくる男だった。はじめてそれを漏らしたときから気になってはいた。もしかするとそれは、彼なりの警告だったのかもしれない。バイクにまたがった時点で、もう3度は口にしていたとおもう。

 バイクの2ケツ経験なんてない人生だったから、わたしは緊張していた。「スピードを飛ばす、だから危険だぞ」。さっきの台詞はきっとそれくらいのニュアンスで言っているのだろうとのみ込んだ。

 なんていうか、バンドマンが「ロックンロールだよね」って口走っちゃうのと似たようなものだとおもいたかったのだ。けれど、路上でもライブでも楽屋でも呑み屋でも、彼らがじっさいそう言ってるのをみたことは、ただの一度もない。意味がなければ言うはずのないことを、わざわざ言ってみせていた……そう気づいたのは、すべてが終わってからだった。

 男の職業は、世田谷区にある某音楽レーベルの自称ディレクターだった。ずいぶん前のことでうろ覚えだし、たぶん、名刺交換もしていない。好奇心が足りなかった。肩書きについていったつもりではなかったにせよ、会社名をだされたときWebサイトの有無くらい確認すればよかったのだ。あー、リアルでの知り合いがふえたなっておもう程度のアバウトな関係だった。

 わたしにとって、気になる男のスペックは学歴や年収や職業などではかるものではなかった。「一緒にいて不安や不快にならないワケ」の集合体だ。ここがすきという大きなポイントがあってすきになるというより、わたしを不穏なきもちにさせない男とつきあっていくうち、ようやく1つ1つ、いいところをみつけられるようになる。「どうしてすきなの」と問われていくつかこたえると、「なんだそんなこと?」といわれがちだが、心地よさの証明は、日々の積み重ねでなりたっていくものだし、よくもわるくも更新されていく。「すき」といえるときには、それらすべてをクリアしてくる男はわたしにとってはめったにいない、といえるほどのすさまじい安心材料の数になっている。

 こういうかんじなので、「どういうひとなんだろう」とおもっているうちは、変かも?と疑問がわいても一緒にいる。ダメだ!とギブアップするまではどれくらいヤバいかを検証してしまう。

 2ケツする前、男は、ライブハウスの男性スタッフから「今夜もバイオレンスですか」と声をかけられていた。「そうだねー」と言ってお互いにやにやしていたのを覚えている。男がそういうことをくり返しているのは、周知の事実だったのだろう。一度きりの関係になるか、これ以降も続くかはおそらくわたし次第。リピーターになるまでは馴れ馴れしくしない。そんな暗黙の了解が、男性スタッフのなかにあったんじゃないかと後になっておもったりもした。

 Yahoo!チャットやMSNメッセンジャーあたりは、わたしが当時、もっぱら仕事で活用していたWebサービスだった(詳細はリンク先へ)。PCを立ち上げれば自動接続されるよう設定していて、いつもログイン状態をはずさなかった。ほうっておくと、だれかしらチャットを飛ばしてくる。社外スタッフとの連絡だけでなく、社内の同僚や上司ともやりとりすることがあった。ランチ以外の外出はほとんどなかったから、ログインが出勤で、ログアウトが退勤という無言アナウンスが(打刻はもちろん別途するけれど挨拶的な意味合いで)まかりとおる環境ですらあった。うちにいるときも、ずーっとつけっぱなしだった。深夜でも早朝でも、なにかしら注文がきて、チャットのラリーがはじまるような日々だった。

 男が向かったのは、とある事務所だった。なにも言わずカツカツと階段をかけのぼり、とびらをひらく。ひとけはなく、しんと静まりかえっていて、街灯と月明りでぼんやり青くみえた。会議室なのか、接客室なのか、革製の重厚なソファがおかれた部屋でそこにすわるよう促され、男はようやく沈黙を破った。

 「おれさ、ここでヤッてみたかったんだ」

 忘れモノでもとりにきたのか? とか、ほんとうにそういう業界で働いているのをひけらかしたかったのか? とかおもって脱力していたわたしに、男の全体重がのしかかる。逃げようのない力だった。「バイオレンスだよね」の意味がようやくわかった。むりやりにでも、暴力的にでも犯すというか、そうしたいと言っていたのだ。

 しびれる二の腕、キシむ間接、どこにいったかわからなくなってる両足、革のソファに沈みきってる腰、男の腕1本に、わたしの腕2本が勝てない。ベルトをはずしているのがわかる。女の筋力不足は、罪だ。ため息がでる。ああ、やっと声がでたとおもったらアハハハハハハハ!って、言いたいことがまったくコントロールできない。

 月明りのさし込むところだけ、世界がポップアップしてみえる。幻想的な墓場。サスペンスドラマだったらもう鈍器で男の顔面をぶん殴っているところだ。が、わたしには腕力がない。覆いかぶさってくる肉厚のせいで視界が狭くなりすぎている。身うごきできない。ケタケタとわらってしまっているじぶんに、冷や汗がでる。おかしいわけじゃなかった。言いたかったのは、「ちょっと待て」と。「落ち着け」ということだった。「やめてくれ」はもう通用しないだろうけど、少なくとも眼鏡は壊したくないんだよ、と。

 これが男の性癖であり、趣味であり、自慢であるとわかったのは、下半身を脱がされたあとだった。「見る?」といって、男はわたしにかけていた重力を一気に解放した。え、なに? 見るってなに? ふいに、部屋のとびらに目をやる。鍵はかけていなかった。ドアノブをひねれば開きそうだ。ただ、まわりの壁がすべてガラス張りだ。ブラインドはおりているが、むりな移動の衝撃で割れてしまうのは避けたい。それ以前に、そこまでたどり着けるだろうか。激高させると困る。

 考えているうちに、男はデジタルカメラをさしだした。画像を何枚もスライドさせている。ケツだ。ケツ、おしり。たぶん女の。いっぱい写ってる。「全員ちがうひと?」脱がされた下着をすこし持ち上げながら、わたしは男のようすをうかがった。あー、みせちゃったと言いながらもすごいだろと自慢している。データには、別の被写体もあっただろうが、ひまさえあれば夜な夜なこういうことをしていたようだったし、いわゆる「はめ撮り」画像だけで500枚ほどありそうな勢いだった。機嫌を損ねないよう、なるべく柔和な態度でおそるおそる訊いてみた。「全員、こうなるわけ?」

 「イヤじゃなければ」という返事が不可解だった。そこはバイオレンスじゃないのかよと。したくない、とも告げてみた。行為そのものがイヤだ、と。しかし、拒まれながらするのが趣味な男にとって、それはプレイ最中に女がほざくお決まりの台詞でしかなかった。

 「あー、もう、するのはいい。ゴムは、つけて。なんなら買ってくる」

 天秤にかけるモノがずれはじめる。命令口調なのが気にさわったようで、わたしに決定権などない的なことを告げたのち、また、おなじポジションに戻される。ドリフか。いや、こんな笑えないコントはない。されているのは犯罪なのだし、ガラスが割れようがどうしようが数分前なら逃げられたのではないか? なにやってんだ、わたし。

 「おまえさ、堕胎したことあるだろ。そんなにイヤがるのって、そういうことがあったからだろ」

 されたあとの耳うちが、もっとも残酷だった。こんなことをするやつが「おろした」ではなく、「堕胎」という漢字2文字をさらっと使ったのが、似合わなすぎておかしかった。

 使用経験のあるひとならわかるかもしれないが、Yahoo!チャットは(たぶんYahoo!メッセンジャーじゃなくてチャットのほうだったよなあ、なんてじぶんの記憶に半信半疑になりながら書いてる)、ふいに知らないIDから突然はなしかけられることがあった。「だれだっけ?」と一瞬おもうが、まったくの見ず知らずのアカウントがなれなれしく声をかけてくるのだ。今よりずっとWeb慣れしておらず、世間知らずで諸々脆弱すぎたわたしは、勤務先で教えてもらった以上の機能説明を求めたりあちこちいじってみることをせず、つながりのないはずのふきだしがあらわれるたびふしぎにおもって「どちらさまですか」と、至極丁寧に対応していた。なにをどうやってわたしにたどり着いたのかっていうと、たぶんプロフィールとかをみて、適当にピックアップしただけなんだろうけど。

 「ひまー」だの「ちわー」だのからはじまる知らないIDからのチャットは、たいていの場合がリアル男からリアル女(と、おもわれるアカウント)への、サシオフにつなげたいがゆえのナンパな挨拶だったらしい。単に、話し相手がほしかっただけというひともいたかもしれない。その男とも、日常のなにげない、どうでもいいやりとりをずいぶんしていた記憶がある。ネットを通じて人と会うことにあまり抵抗がなかったのは、そうやってコンタクトをつなげていくことで仕事を得ていた面もあったからだとおもう。

 さすがに、「どんな顔?写真送ってよ」みたいなわかりやすい出会い目的の乱発定型文が飛んできたらスルーするくらいのことは覚えた。反応しないでおくと消える、しつこくしてきても黙っていればそのうちよそへいく、と学習した頃には、そういうWebサービス自体を使わなくなっていた。はじめての転職先では、必要なかったから。

 「すき」にたどり着くまで、一通りつきあってみる日々。わたしはとっくのむかしに疲れていた。<回復の泉>になりうる男がそこかしこに点在していて、どっぷり浸かっては、また疲れている。

 「あ、ぬけだせたかも」とおもいはじめるまで、それから数年かかった。



※はてな匿名ダイアリーの「Yahoo!チャットって場所があったんだよ」は、わたしが書いたものではないです。