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◆人が死を畏れるのはなぜなのか

 結論から言うと、人は死そのものを畏れているのではなく、「自分がどのように死を迎えるのか」に対して畏れているのです。

 しかし、よく考えてみてください。多くの人たちが「死は恐ろしい」と思い込んでいるのだとすれば、なぜそのように思うのかを想像することができますね。

 それは、一般的に人が誰かの死に向き合うこともそうですが、連日報じられる国内外の報道や、その何十倍ものドラマ、映画、アニメなどの創作品を観続けた結果、死に対するイメージが拡張されるからだという捉え方ができるかと思います。

 時に、自然災害や事件事故などに遭遇することもあるという意味では、そうした幾多数多の作品は、死に直面した時の免疫の役割を担っているとも言えるのかもしれません。

 むしろ、死という概念を一切含まない作品を思い出すほうが難しいかもしれません。

 死に対するイメージは知らず知らずのうちに植え付けられているとも言えるかもしれませんが、自身が死を迎える時を想像して畏れるというのは、私個人的には考えもしないことなので理解するには難しいと感じます。

 何度か死にかけたことがありますが、一番直近の体験で言うと、歩行者用信号が赤から青に変わったため横断歩道を渡ろうと一歩踏み出そうとしたその瞬間、「あ、何か来る・・・」と右目の視界ギリギリのところに何かが見えたと思い、踏み出そうとしている右足を浮かせたまま止まると、交差点の向こう側から赤信号を無視して猛スピードで軽自動車が直進してきて私の前を通過していきました。

 もし一歩を踏み出していたなら、軽自動車左前方に激突し、即死していたかもしれません。その時、なんと言えばいいのか、首根っこを引っ張られたような気がしたんですよね。なんとなくそんな気がしたんですよ。

 首のうしろ付近、頸椎部にはトゥレンペという守り神が宿る・・・とかいう話をゴールデンカムイで観た覚えがありますが、「あれは本当かもしれない」と思いたくなるような瞬間でした。

 何が言いたいかというとですね、社会に浸透している常識やルール、法律も含め、自分はそれらを信じて守っていても、守らない人間たちの犠牲になる可能性は常に潜在しているのだ、ということです。

 真面目で真摯な常識人であろうとすることは結構なことですが、自身がそのようで在ろうとすることと、他者がどうであるかはまるで異なるもので、どんなに自分が信じて守っていても、明日突然、まったく違う結果に至ることになる可能性があるんですよね。

 それで私は思ったんですよ。畏れるべきは死や死に至るまでの経緯ではなく、常識とされているもの、その他、ルール、規則、法律といったものを守らない人間たちが身近にいるということなんだ、と。

 過失であろうとそうでなかろうと、誰かの行いのせいで命を落とす、そういう死に方だけは避けたいものですね。信号無視は危険運転でしかないわけですが、いい加減、運転免許証をはじめとするあらゆる資格については、取得権限を別途付帯させたほうがいい気がしますね。

 免許を取得できるだけの知識と技能があれば誰でも取得できるというのであれば事件事故は後を絶たない。AIで自動選別できるようになるといいのになぁと思います。DNAで判定できるとかでも全然いい。

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