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【職場改善note有料マガジン】No.0006・・・自分のことは自分が一番わかっているのだろうか・・・?では、なぜ人は「失敗」する?あなたは自分の失敗をどう捉える?ドラマ「白い巨塔」から学ぶべきこと

【1】他者の失敗を責め立てる人間ほど自分の非を認めない。

 あなたは「失敗」をどのように認識しているだろうか。 

【失敗とは】
[名](スル)物事をやりそこなうこと。方法や目的を誤って良い結果が得られないこと。しくじること。(デジタル大辞泉より)

 上記に示している意味は、あくまでも失敗という言葉の直訳に過ぎない。 ボクはね、人々が言葉一つに対してどのように認識し、如何に正しく扱っているかがすごく気になる人間なのだ。 これは失敗という言葉のみならず、どんな言葉に対しても丁寧に理解を深め扱うことを意識している。

 時に真実は、人間の保身の気持ちによって捻じ曲げられることがある。 また、一人の人間のそうした行い(=愚行)によって、他者(=個人、集団組織)を窮地に追い込む事態を引き起こしてしまうこともある。 失敗とそれによって生じる責任は、個人のそれであるならば失敗した本人が果たすべきものである。 そしてそれが組織体で起きたことであるならば、失敗した人間の上司にあたる人間が果たすべきものである。

 組織ぐるみで業務上起きてしまった過失・過誤をもみ消すようなことが起きてしまえば、本来果たすべき責任は宙に浮き、たらい回しにされてしまう。 「私は悪くない」「上司に指示・命令されたからやっただけだ」と言い逃れをしてしまうのは、起きた問題を解決するためのものではなく、唯一、保身の気持ちから出る言葉でしかない。 そうして論点を逸脱した議論はいたずらに時間を過ごすことになり、状況は悪化の一途を辿ることになる。

 極端な話をすると、罪を犯した人間が罪状を否認するというのも、偽証罪に問われることになったとしても構わない、無罪放免されることを望むという保身の気持ちしかないから認めないのだ。 人間は、例え自分が犯したミスが過失のものであっても意図したものであっても、窮地に追い込まれると自分の目先の変化に対する恐怖のあまり、頭ではわかっていても逃げてしまうのかもしれない。 しかし、社会というのは逃げれば逃げるほどどんどん自分を崖っぷちに追い込むことになる。

 そして気付くのだ。 崖から谷底に堕ちた時に。 「あー、もっと早く本当のことを言って非を認めればよかった・・・」と。 思えば、学校では失敗に対する正しい教育をされたことはないように記憶している。 もちろん、歴史や倫理、そして道徳などという科目においては授業があったが、あれは形ばかりで受動的なものでしかなく、生徒一人一人に正しく認識させるものではなかったのだと思い出される。

 そして、社会に出てみれば、「悪」に洗脳される者が後を絶たないことに気付かされる。 これはもう過失という域を遥かに超えて、バレなければいいという安易な考え方が前提に立っているために、真っ直ぐ自分と向き合うということは意識外のものになってしまっている人間が社会に存在していることを如実に示しているのだと言える。

【2】正しいことを正しいと言えない人たちの中であなたはどう生きる?

 よく考えてほしい。 明らかにおかしい状況において他の誰一人としておかしいと声に出さないからといって、あなたは黙って見て見ぬフリをするのか、それとも勇気を出しておかしいと声に出すのか、どっちだろうか。 考えなければならないのは、前者にしても後者にしても、どちら側に立つにせよ、結果としてそれがあなた自身にとって本望かどうかだ。

 人間の思考というのは、たった一つ、「保身」という考え方に支配されただけで、自分に都合の良い解釈しかできなくなってしまう。 そして、状況把握ができるだけで、事の悪化を予見することができ、自分だけは当たり障りのないように振舞おうとすることもできる。 言わば、他人事として処理してしまうのだ。

 「ウソ」というのは本当に便利な表現だ、そう感じている人は少ないかもしれないが、心理的な観点からほとんど無意識にウソを言ってしまっていることは実に多い。 ウソの種類も様々で、「事なきを得ようとする自分本位なウソ」「相手を困らせたり傷付けたりするための悪質なウソ」「相手のためを思って吐く善意によるウソ」「吐く必要もないウソ」「自分のことをひたすら隠すためのウソ」など、実に様々だ。

 人は、生きていればどこかで必ずウソを吐く。 生涯一度もウソを言わずに最期を迎える人などそうはいない。 事、この日本社会においては「本音」よりも圧倒的に「建て前」が先行した人間関係が蔓延している。 これは、大方他人同然の人間関係において誰もがそれを良しとしている、そんな関係性だ。 でもボクは、そういう人たちの中で生き、そういう人たちに対して自分も合わせて建て前による接し方をすることには、それほど魅力を感じられないでいる。

 勇気を出して正しいことを言った人間を排除しようとするのが社会。 大人たちの多くがパンドラの箱を開けまいとしている。 どうしてそんなことが起こるのだろうか。 その理由は簡単で、本音を口にすればその後自分の身に降りかかる出来事がどんなものかを想像できるからだ。 嫌われたり、疎外されたり、無視されたりして、自分の居場所を失うことを心底恐れている人たちがそれだけ多いということ。

 お笑い芸人であり、絵本作家であり、インフルエンサーでもあるキングコング西野氏曰く、「働くのであれば、ウソを吐く必要のない職場で働けばいい。 そういう意味では、テレビ番組の中でも最もウソを強要される『グルメ番組』は絶対に出てはいけないと言える。 朝の報道番組もそう。 自分が本当に思っていることをコメントすれば、視聴者から批判が殺到することが想定されるため、オブラートに包んで言うか、ウソを言うかしかできない。」 というようなことらしい。

【3】医療現場で働く人たちは患者に対してどう向き合うべきなのかについて苦悩している。

 ドラマ「白い巨塔」で浪速大学病院第一外科の教授になった財前五郎は、とあるガン患者の手術をし、1週間以内に死亡させてしまう。 術前の診断において、胸部X線画像には薄く雲がかったような部分が見られたものの、それを術後によくみられるものだと判断し、必要な処置を怠ったために起きた医療過誤であった。

 医師として、財前教授は患者との向き合い方を誤ったのである。 一度吐いたウソは取り返しの付かない事態を引き起こし、亡くなった患者の遺族によって起こされた裁判で最終的に敗訴する。 それと同時に、財前教授は肺ガンに倒れ、師である東(元)教授によりガンの摘出手術が行われたが、開胸した時点でステージ4(末期ガン)であることが発覚する。 手術開始からわずか30分程度でその事実に直面した東教授は、予定していた手術を断念し、開いた胸部を閉じたのだった。

 自身の野望に邁進した財前は、その技術とあらゆる人脈と金を駆使して浪速大学病院の教授になり、建設予定のガンセンターのセンター長になることを目論んでいた。 野望を持つことは決して悪いことではない。 しかし、野望に向かって生きていこうと思うのであれば、ウソは絶対に吐いてはいけない。 そのことを「白い巨塔」の原作者である山崎豊子氏は作品の中に色濃く示している。 ウソを吐くということは、結局のところ自分の首を絞めるだけなのだという学びを得ることができる。 それがドラマ「白い巨塔」だ。 是非、YouTubeで観てほしい。

【4】自分が持つ技術や才能に酔い、慢心によって選択される行動は、いつかきっと後悔を生む。

 そう、結局ウソはバレるようになっているのである。 上述したように、ウソにはいくつか種類があるが、如何なるウソによって至る結果は必ずウソを吐いた本人がしっぺ返しを食らうことになる。 仕事においてどんなに努力をして上り詰めたとしても、ウソの上塗りを繰り返せば自分だけではなく、自分を雇ってくれている会社組織そのものにも甚大な悪影響を及ぼしかねないし、取引先やエンドユーザーからの一切の信用を失うことになる。

 コンプライアンス(=法令遵守)は、この10年間で加速的に重視されるようになり、その中でいくつもの企業が内部不正発覚により記者会見で頭を下げてきた。 ボクたちはこれまで幾度となくそうしたニュースを見聞きしてきた。 それなのに、自分の職場において上司から不本意な指示・命令が成されていたり、自分の勝手な判断でルールを逸脱して誤った方法で業務を遂行していたり、本来はやってはいけないことをやっていたり、というようなことが見過ごされやすくなっている。

 医療現場においてだけではなく、モノづくりの現場においても業務上の過誤は現実に起きている。 しかし多くの人たちが、そうした状況に対して声を挙げることを避けて通ろうとする。 なぜならば、自分一人が声を挙げたからといって、その後想定される事態に対して責任を負うことができないからである。 組織において立場が下であるというだけで、誰もが本音を声に出そうとしない。 上の人間たちは何を考えているのかといえば、面倒事は可能な限り避けるべきだと、そう考えているのである。

 面倒事を避けたいがために、問題解決に対して真っ直ぐに取り組もうとしなかったり、曖昧にして誤魔化そうとしたり、隠したり、議論をしたとしても論点を逸脱させようとしたり、そんなことばかりが繰り返され、結果、業績悪化にまで進行してしまう。 まさに、ガンの病理のように、組織は簡単に腐敗していく。 ボクはそんな状況を目の当たりにして黙っていられるほど頭は良くない。 しかし、感情的になるのではなく、事態の本質を見抜くように心がけている。

 おかしいことに対して何がどうおかしいのかを明示した上で、今後どうしていくべきなのかを考えられる思考があれば、如何なる問題にも冷静に対処できると思う。 ボクは今働いている職場で、そういう思考をリアルに発揮している人を探している。 表立って動けるほど小さな組織ではない。 それでも、必ずそうした人は存在すると信じている。 しかしながら、現実は裏では言いたい放題言っているくせに、公式の場では黙っている人がやはり多いことにも気付かされる。

【5】組織の抜本的改革と自己変革

 自分以外の人たちが、今の職場をどんなふうに捉えているのかは個人的に気になるところではある。 他力本願というか、他人事というか、自分の立場では関与することができないと思っているのか、自分が出来ることは何もないと思っているのか、その辺はハッキリとはわからない。 しかし、職場においては誰もがリーダーシップを持つべきであり、誰もがそれを発揮すべきであり、当事者意識を高めつつ、職場に生じている大小様々な問題に思考を働かせるべきではないかなと思う。

 少なくとも、ボクが見る限り、今まで通りやっていても現状は打開されない。 誰が職場の核にメスを入れるのか。 実際誰がそれを担ってもいいと思うんだが、リスクや保身ばかり考えているようでは、いつまで経っても誰も動きはしないだろうと思われる。 抜本的改革、実態調査、そういう大義名分を掲げていても、何がどう変化したのかを実感できなければ熱は冷めていく。

 組織の体質がどんなものかはそこで働いている人たちが毎日のように肌身でもって感じているはずだ。 何年も何十年も働いていればよく知っているはずだ。 ところが、知っているからこそマンネリするし、思考も行動も重くなり腰が上がりにくくなる。 「どうせ言っても無駄」「どうせやっても意味がない」そういうことをボヤいている人たちが本当に多いし、一度そうしてボヤいた人は何度も何度も口先では好き勝手に言うだけで、自分ではこれといって何かやるわけでもない。 熱は冷めている。

 だからと言ってボクは彼らを無能だなんだと言うつもりは毛頭ない。 何かできるはず。 有能な彼らなら、資格を持っている彼らなら、必ず何かできるはず。 派遣社員ですが何か?とも言わない。 ただ、「できるはずだ」と信じているんだよ、ボクは。 抜本的改革? できるさ、彼らなら。 でもね、かつてその会社に入社するに至るまで勉強し、高校大学と卒業し、いくつもの資格を取得した彼らとはいえ、「現状において熱意が消失しているのだとすれば、どんなに有能だった人たちでさえも改革は実現できない」とボクは考えている。 つまり、彼らの「今」を観察しているんだ。

 自己変革とか自己研鑽とかいうものは、ある一定期間やればいいというものではなくて、毎日やる必要があるように思うんだ。 おそらく、資格はその一端を担っているように捉えることもできるが、しかし、資格はあくまでも取得したという証明に過ぎず、それをどう活かすかが最も重要ではないだろうか。 資格は取得しただけなら単なる飾りに過ぎない。 職場が活力を失ってきたのは誰のせいだ? 自分のせいではないと、本当に言い切れるのだろうか。

 自己変革の邁進している人たちは、負い目なんか感じることなく、毎日自分を磨いている。 その手段は人それぞれだろうけれど、自分を磨くことをしない人間がどんなに素晴らしい資格を持っていたとしても、適切な活かし方はできないし、場合によっては誤った使い方をしてしまうことだってある。 考えてみればいい。 自分がかかっている病院の専属の医者が保身に走るような人間だったら、その医師を医師と認めて安心して手術を任せることができるだろうか。

 医療過誤と言えば過失感が漂うけれども、そうではない悪質な医療過誤も現実に起きている。 患者の命はゴミのようにしか考えていないヤブ医者のどこを信用すればいい? 権威?! それも飾りだ。 病院の面子のためだけに、周りの人間たちによってもてはやされたモルモット同然だ。 真の権威は、黙っていても実績に現れる。 患者の数が多すぎて一人一人への診断が適正さを欠いてしまっている病院だってあるだろう。 病院に行けば大丈夫なんて考えている一般人には本当に呆れてしまう。 中には病院に行くほどの状態でもない患者だってたくさんいる。 そして、急病で苦しむ患者がたらい回しにされたり、最悪の場合、合併症を併発したり命を落としてしまったりする人だっている。

 人が自分のステータスだと思っていることは、決して他者に対して同等に映るものではない。 事を成して初めてそれと認識してもらえる。 ただ、自分の信念も、ポリシーも、価値観も、こだわりも、そしてプライドさえも、他者にどう評価されるかはコントロールできない。 最も重要なのは「自分が自分をどう評価できるか」だ。 自分が自分を実質的に高く評価できる状態にまで成長できたのであれば、必ず認めてくれる人が現れる。 他者からの高評価は常に後天的に生じるものだと認識するのが正しいと言える。

 他者から評価されたいがために、他者から認めてもらいたいがためにやることが悪いことだとは言わないけれども、大体そういう考え方が先走ってしまうような人というのは、行動よりも前に口先でアピールすることのほうが多い。 また、得てしてそういう人間ほど他者が認めたくなるほどの努力はしていない。 事を成して初めて・・・だ。 会社の従業員一人一人が自己変革に邁進するようになれば、職場が改善していくのも問題が解決していくのも時間の問題だろうと思う。 これには莫大な時間と労力が必要で、膨大なエネルギーを燃やすことで生じる熱量も求められる。

【6】本音で戦って負けたなら後悔なんてしないだろう

 本音で戦おうと思うのならば、手段は限られるかもしれない。 ウソで他者を騙したり脅したりして手に入れた成功は泥船なんだよね。 世界のどの国のメディアよりも日本のメディアはターゲットの過去や身辺をほじくりかえすことに長けている。 学歴詐称、経歴詐称、そういうことが後になって世間に明るみになった有名人は少なくないし、あの女性国会議員も2国籍で問題視されたことがあったね。

 完璧な人間なんていないし、後ろ指刺されるような過去があっても自分を売り込もうと必死になっている人たちはたくさんいる。 でも、やっぱり、肝心な時に、自分が過去に付いたウソや現在までに隠してきたことというのは、自身の足元を掬うことに繋がっているのかもしれないってボクは学んでいる。 ただね、隠すほどの過去がない生き方というのも味気なくて刺激にも欠けるなーと感じるんだよね、自分の生き方を振り返ると。 だから、後悔という後悔も実のところ言うほどないんだよね。 むしろ、うまく行きすぎて派手にスッ転んだという印象が強い。 ボクの人生における失敗は、自分で言うのも変だけど、これはこれでなかなか面白い失敗だったなと今は思う。

 自分が過去に経験した失敗というのは、どういうわけか時間が経てば経つほど価値を増すのだなとボクは思う。 そして、自分が過去に経験した成功というのは、現在においては何の価値もないのだなとボクは思う。 失敗しながら生きる、それが人の生き方なのではないか、そんなことを考えるようになった。 今ボクが手にしている本は【死とは何か】というタイトルの本だ。 以前、noteで紹介もしたことがあるが、すごく興味のあるテーマであり、万人にとって共通の、そして必然のテーマであるため、これから読み進めるのが楽しみだと思っている。 書いてあること全てが自分にとって正しいわけではないのかもしれないが、良い勉強ができそうだと期待している。

 これからボクは、人生においてどんな失敗をするのだろう。 これからボクは、人生においてどんな恥をかくのだろう。 なんだかね、自分が成功したり得をしたりイイ思いをしたり欲しいものを手に入れたりということよりも興味があるんだよね。 ボクはね、「自分が何者であるかを自身で追求することは、人として生きる以上、その『責任』がある」と思っている。 その責任を果たすためには、ウソでは絶対に実現不可能で、本音でしか実現できないと確信している。

 たとえ本音で戦ったことにより失敗したとしても、たとえ本音で戦ったことにより他者から嫌われたとしても、それはボクの本望なんだ。 そうでなかったら人生を全うすることはできないとさえ思っている。 すると、これからの人生が面白くなりそうな気がしてくる。 バカだの頭おかしいだの思われたって全然構わない。 自分がそういう自分を面白いと思えればそれで満足。 その結果、自分が何者であるかを知ることができるのだと確信している。 きっとあなたも、そうであってほしい。 自己変革は面白い。

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