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◆言葉の意味について真剣に再考する時間 #2

◆「希望」とは

 せっかくならね、どうせ一度きりの人生、希望を胸いっぱいに抱いて走り続けてみたいよね。それにしても、希望ってどんな意味なんだろうね。改めて考えてみると定義づけが難しいなと思ってしまう。

 今まではさ、いちいち言葉の意味を検索して、「元の意味が正しい」っていう思い込みから、漠然とそうなんだと理解した気になっていたんだけれども、それってなんかおかしいかもしれないと思い始めてね。「言葉の意味について再考するシリーズ」は、この先ずっと、不定期で続けていくので、「自分で再考すること」に興味のある方は是非これを良い機会にしていただけると幸い。

 なんでこういうことをする必要があると私が思っているかというと、まだまだ自分の思考が古い価値観や常識だと思っていることにベッタリと縛られていることが多いと感じていて、そういうものを上書きするにしても、他の誰かの価値観で上書きするのはちょっと違うなって思ってるんだ。結局それが上書きしたつもりになっているだけで終わってしまっては意味がない。

 で、そうでもしないと自分という人間をアップグレードすることは難しいだろうということで、言葉の意味を白紙に戻して再考するってことを始めようと決めたのだ。でもこれは、上書き後、かつての古い価値観や既成概念を否定するためにやるのではなく、「時代の変化と共に変わるもの」だから、本来やらないといけなかったんだよね。

 さて、今回は「希望」の意味について再考するよ。

【1】人は元から「生きること」が唯一の希望だった

  生きたい、死にたくない、そう思うのが人の本能。でも、自ら命を絶つことがあるのも人。本当は死にたくないけれども、生きていられるのなら生きてこの先の未来を見続けたいはず。

 生きることを諦めてしまう人たちの個々の悩みや事情は様々で、特に、不治の病に侵され、長くは生きられないことがわかってしまうと、希望などもてるはずもなく、苦しんで死を迎えるくらいなら・・・と考えるのも無理はないだろうと思う。

 すごくぼんやりとしているよね、希望って。それでも、人が生きていくにはたとえ未来へのぼんやりとした希望でも抱けるようでないと、やりたいことを探す気も起きないだろうし、何をしていても楽しいよりも不安のほうが大きかったりして、味気ない毎日をただ過ごすことにもなる。

 「懸命に生きて何になる?」「長く生きたからどうだと言うんだ?」「結局は死を迎えるのに生きて一体何の意味がある?」こういうことを言い出す人たちもいれば、「誰も理解してくれない」「自分なんて存在する価値がない」などと思い込んでしまう人たちもいる。実際に、私自身も“長く生きること”そのものに価値があるとは思っていない。

 では、なぜ生きているのか。それは、人であるが故の本能から「死にたくない」「生きたい」とほとんど無意識に思っていて、生きることに“なぜ”とか“どうして”などといった理由付けは必要ないとも考えている。もちろん、生きているだけでお金はかかるし、嫌な思いをすることもあるし、決して良いことばかりではないんだけれども、80年~100年の人生なんて長いようであっという間。それがたった一度きりというのだから、自ら命を絶つ理由付けも必要ない。

 ただ生きるだけの人生なんてつまらない、そう考える人もきっと多いのかもしれない。考えるだけなら自由だからね。人間の欲望には際限がない。昨年の日本国内の詐欺被害総額はおよそ250億円にものぼる。そのほかにも、高級車を狙った車上荒らしやバイクの強奪事件なども日を追うごとに増加傾向にある。人から奪ってでも金銭を手に入れてメシにありつこうとする者たちを擁護する者などいないだろうが、彼らも刑務所に入る覚悟で「生きることが唯一の希望」で人様から奪うのかもしれない。

 その希望すらも危うくなると、誰のせいでそんなことをする羽目になったかを明らかにするよりも前に、目先の食をなんとかしなければならないが故に、結果への想像はできていたとしても判断能力も鈍るのかもしれない。

 現代においては、お金がないというだけで人は極めて脆く弱い。弓や槍で狩りをする能力が高ければ生きていられた古い時代や、剣技や武器の扱いに優れている者が功を積み高い地位を手に入れられた戦国の時代、そして、暗記力に長けてさえいればテストの点数稼ぎができて一流大学入学や一流企業入社ができた近現代であるならまだしも、今となっては収入が上がらないのに物価や税金は上がり、普通に生活することさえも難易度が跳ね上がってしまっている。

 そういう現実を目の当たりにすると、元よりぼんやりとした希望という抽象的なものが、ふっと軽く息を吹きかけただけで消えてしまいそうなほど、今は誰もが未来への希望を持てず、不安を抱えている。

【2】多くに恵まれた世代は「景気が良かっただけ」

 1945年に終戦を迎えて以降、戦後復興を終えた日本は高度経済成長期を迎えたわけだけれども、そこからおよそ50年の間に日本国内では人々の欲望が爆発的に開花することになった。今は影も形もない“中流階層世帯”が多く、加速的に変化し続けていく社会や生活様式に、きっと誰もが胸を躍らせたことだろう。

 彼らが抱いていた未来への希望は、きっと普段の生活でさえ明るくしただろうし、楽しいことが次々と誕生し、日本の未来への不安など感じる暇もないくらいの楽園にさえ思えたかもしれない。

 「時代のせいにするな」「社会のせいにするな」というきれいごともほとんど社会通念のようにまかり通っていたのだろう。私たちの世代(現在30代から40代)の人たちのうち、社会に対する不満に耐えきれずに無差別事件を起こす人が出てき始めたように感じるけれども、そういう行為に及ぶ彼らの心理には、「時代のせいにしたい」「社会のせいにしたい」そういう思いもいくらかあっただろうし、中には「親のせいにしたい」という思いもあったかもしれない。

 現在30代~40代の親世代というと今は60代以上で、基本的に昭和的な考え方で子育てをしてきた世代だ。気持ちはよくわかる。親がどうかはさておき、時代のせいであること、社会のせいであることは、100%そうではないとは言い切れない。

 突然、国全体が戦争に巻き込まれるようなことが起きれば、希望などなく、命の危険に震えるだけの日々が始まるわけで、精神論は一切通用しない。お金があってもなんともならないような事態。すがるものがない。どんなに憲法に生きる権利が認められていようとも、どんなに国家として戦争をしてはならないと定められていても、軍を持たない日本は徴兵制もないわけで、自衛隊による国防の概念に頼るしかない。戦えるだけの実態はほとんどないに等しい。立場的にはウクライナと大して変わらないばかりか、もっと弱い位置にあると言える。

 日本経済が長年停滞縮小を続け、人口が減り続けているような状況で、「いざとなればアメリカが助けてくれる」などと思い込んでいるのだとすれば、あまりにも呑気だとしか思えない。国益に見合わない軍事協力はどの国でも避けたいというのは当然のことで、アフガニスタンからアメリカ軍を撤退させたバイデン大統領の判断がそのことを如実に表している。

 今日のニュースで、立憲民主党が党名を“民主党”へ変更する調整をしているとかでヘッドラインに「国民と溝」って書いてあったのには失笑した。政権交代した当時の記憶がフラッシュバックするよね。

 立憲民主党の党首である泉さんが半年くらい前からメディアに出るようになって、最近、日経テレ東の動画でひろゆきさんと成田さんの番組に出てイメージを爆下げしてしまったことに起因してのことだろうと思う。明言を避けてハッキリと答えず、揚げ足取りをするような返答しかしない党首だと晒してしまったようなもの。「党として果たしたい公約とかってあるんですか?」って敢えて質問されるような政党は、正直政治に関与してほしくないよね。自民党の菅前首相とは大差を感じた。

 そうだね、今の時代の舵をきれる頼れるリーダー不在という意味でも、一層日本の未来に希望を感じられなくなってしまうよね。いよいよ令和時代も完全な氷河期へ移行しそうな予感しかしない。

【3】希望を失ってもお金に執着してはいけない

 いや、わかるよ、お金は便利だし、あればあっただけいろいろなことができるからね。じゃあ、とりあえずここでお金について考えてみようか。今ここに10億円があるとして、どういう使い道を考える?

 「起業する」「豪遊する」「投資して資産を増やす」「欲しいものを買う」「貯金する」など、できることとしてはいろいろあるにはあるよね。でも、結局それくらいでしょう。お金自体に価値があると思っていたり、お金さえあればなんでもできると思っていたりする人たちほど、本質的にお金の価値とかお金がどういうものなのかを理解しているわけではないし、勘違いしている人たちが99%だから1%の富裕層がどんどん裕福になっているわけよね。

 特に、貯金するとか考えてしまう人は、いくら資産を持っていてもその価値を最大化することはできないだろうし、使うにしても有用な扱い方はできないよね。

 お金ってさ、実現したいことを叶えるためのツールであって、資産を増やすことは過程の作業でしかない。ということは、実現したいことがない人が大金を手にするとろくなことに使わないし、あっという間に消えてなくなるか搾取されて失うだけなんだよね。

 よくよく社会の構造を疑問視してみるとね、国民三大義務である「教育の義務」「労働の義務」「納税の義務」は、“この国の民として実現したいことを叶えるために果たすべき義務”ってことなんだよね?でもさ、現実を見てみると、実現したい夢、目標、野望みたいなものが現代にはパッと見言うほどあるようには思えないんだよね。

 「あなたは国民としての義務を果たしてどんなことを実現したいですか?」という質問に、皆さんはなんて答える?

 「毎日おいしいお酒を呑む」とか「ゲームをする」とかかな。正直、娯楽は飽和してしまっている。ギャンブルだって好きな人は好きで趣味でやってるんだろうけれども、パチンコやスロットなんかでいうともう風前の灯火で、今に至っては年金暮らしをしている高齢者から毎日のように年金を吸い上げる役割しか果たせなくなっている。儲かってるのは機械代メーカーとか設備関連企業で、カジノが本格的に始動してしまうと一気に冷める業界。まさにオワコン化することが確定しているようなもの。

 もうみんないろんな娯楽に飽きてきて、いよいよやることがなくなってきて、楽しくない毎日を過ごすことになる。エンタメも限界があるだろうね。このご時世も相まって、最近では世界情勢関連の動画配信番組に多くの人たちの可処分時間が投入されつつある。特にやりたいことはなくても、今知りたいことに意識が自然と向かうようになってきているのかもしれないってのは一理あるのだろう。

 強いて言えば、ゲームや有償コンテンツへの課金・・・くらいなんじゃないかな。それもさ、appやGooglePlayにプラットフォーム利用手数料が各コンテンツ運営会社から支払われているわけで、ユーザーが課金した金額から年間でとんでもない額がアメリカの巨大IT企業に流れ込んでいるんだよね。

 ゲームに課金するために、店の大学生アルバイトが客のクレジットカード情報を盗撮して、結構な額の不正利用をしたとかいう報道をつい最近見たけど、お金に執着するとそういうことをしてしまいかねないんだよね。確かに、アルバイトの給料程度じゃ満足に課金できないよね。とはいえ、理性が崩壊するくらい課金したいゲームがあるとしても、そこまで依存しているのなら正社員で働いていてもおそらく制御は不可能だろうね。

 「お金がなくてやりたいこともろくにできない」と思っているからといって人様から奪ってでもやるっていう思考は、盗んだものが電子データだとしてもやってることはその辺を歩いている人からバッグや財布を奪っているのと同じだから、略奪行為そのものだってことすらも無視していることになる。仕方がなくやったとかいう言い訳が通用しない。

【4】悪さに関する知恵

 誰だったか忘れたけど、過去に自分がした悪さを自慢げに語ったことで大炎上した有名人がいたけど、時間が解決してくれるわけではないからね。悪さをした過去は一生付き纏う。

 いま全国で横行している特殊詐欺事件なんか特にそうだと思うんだけど、手法や手口が詐欺グループでマニュアル化されているケースがほとんどで、年々詐欺行為そのものが巧妙化しているのは、失敗を繰り返しているからなんだよね。犯罪行為を計画的に企てている主犯の人物はたぶん優秀なんだろうよ。

 (電話の)かけ子、(金銭の)受け子の人員は、「稼ぎの良い仕事があるよ」って言葉になびいた人たちで、失敗する者もいれば、成功する者もいるわけで、基本的にはどうして失敗したかを分析して修正して成功率を高めているんだと思うんだ。これって普通に働いていてもやることは共通しているはずなんだけど、特殊詐欺グループという組織は巧妙化するにつれ、極端な話、一般民間企業組織と内部統制の仕方が近付いてきているんだろうね。

 「知りさえしなければこんなことに加担しようなんて思わなかったのに・・・」と後悔している人たちが若い世代で増えているらしいけれども、中には無自覚に受け子(運び役)として詐欺に加担してしまっているケースもあるとかで、知り合いや近しい人間関係にある友人から誘われて断るどころか信用してしまってそういうことになっているみたいね。

 正直、一度でもそういう経験をしてしまうと、それまで気兼ねなく関わってきた人たちのことすらも信用できなくなってしまう気がするよね。

 人の感覚は、記憶と直結するという話がある。嗅覚で言えば、学校の理科室のような臭いを嗅ぐと当時の記憶が蘇ったり、味覚で言えば、人生でレモンという食べ物を初めて口にしたら、レモンを見たり、レモンを連想するだけで唾液が出てきたりする。

 悪さで言うと、危険薬物ね。これは元々依存度が高いというのもあって、一度でもやると、その時に感じた快楽は、生涯記憶に残り、忘れたくても忘れられない。見た目が似たものを見ただけでもフラッシュバックするっていうからね。

 再犯率の高い軽犯罪も、最初数回やっても「バレなかった」という“成功体験”がその手をもっと汚すことになる。頭ではやってはいけないことだとわかっていても、成功体験が続いているうちは「まだ大丈夫だろう」と思い込んでしまう。

 車の運転で言うと、法定速度を超えた運転ね。ハイスピードで運転していると気持ちいいとか、オレ格好良いとかいう具合に感じてしまった上に、それまで一度も警察のネズミ捕りにもオービスにも引っかかっていないという体験が心に傲りを生じさせて、警察に捕まったり大事故を起こしたりする。少なくとも、そういう末路に至らない限り、いつそうなってもおかしくないリスクはずっと潜在する。

 悪さに関する知恵は、できることなら知らないほうがいい。興味本位でも自分から調べてみようなどとしてはならない。知恵って本来はすごく有用で便利なはずなんだけれども、全てがそうではない。

 お金も、道具も、知識も、知恵も、人も、仕組みも、全てを良いことに活かせば何の問題もないけれども、人はお金のためとなるとどれを扱うでも見境がなくなるというよりは巧妙化させていくため、治安を維持しようとする警察とのいたちごっこが延々と続くことになる。

◆“べき論”はもう古い

【1】人生における“こだわり”は少ないほうがいい

 人が人生に何を望むかは、生まれた時代によって変化するのは当然のことで、自分の人生においてはどれだけこだわっても、それが子や他者にとってもそうであるべきだと切々と語るのは違う。少なくとも、複雑化する現代社会においては、どんなことにおいても考え方や思想で一括りにすることは無駄な論争の種になることも増えているように思う。

 自分の常識、他者の非常識。自分の非常識、他者の常識。これはものの例えとして表現されるけれども、同じ環境で長く共に時間を過ごしたとしても、誰もが同じ価値観に染まるわけではない。

 一番わかりやすいところでいうと、「善行と悪行」についての人々の認識は単純な解釈だけでは処理できないケースが多々あることに気付かされる。今から列挙する項目を善行か悪行かに振り分け、なぜそう思うのかを考えてみることにしよう。

  • 既婚者の不倫が発覚

  • 無銭飲食で食い逃げをした

  • 道を尋ねられて道案内をした

  • 電車やバスでヘルプマークを付けた乗客に席を譲る

  • 街を歩いていて正面から来た柄の悪い男から肩がぶつかったことを理由に殴られたためこちらも殴り返した

  • とある学校のクラスでのいじめ

■既婚者の不倫が発覚…世間的にも「悪いこと」という認識をされていて、よく有名人やタレントの不倫が発覚するとメディアにつるし上げられ、SNSでは炎上するというのが常態化している。不倫そのものを擁護する気はないけれども、第三者には本来何も実害はなく、「当事者同士の問題」でしかない。それでも、CMやドラマや報道番組などから降板させられて、時には損害賠償の対象にされたりもする。「人気商売だから」というのもあり、日本では関係する企業や作品のイメージを著しく低下させたとかなんとかでそんなことになってしまう。

 どう見ても行き過ぎた社会的制裁のようにしか映らないのに、昼の報道番組自体が高齢者に好まれるように構成されているために、ほとんど無関係な一般大衆に向けてどうのこうのと無駄な発言をしているコメンテーターの必要性すらも大して感じられない。他人のスキャンダルをネタにして金稼ぎして飯を食っている日本のメディアも必死なのかもしれないけれども、やっていることは少しも生産性がない。

■無銭飲食で食い逃げ…法律上は窃盗罪と不法侵入の罪に問われるのかな。この一点だけを見れば悪行そのもので、警察に突き出されても当然だと誰もが思うだろう。飲食店で食事をするには食べた分の支払いをするのが当たり前だから、と。しかしどうだろう。こうした事件をネットニュースで見かけた時、皆さんはどんな捉え方をしているだろうか。

 私の場合だと、無銭飲食をするに至る経緯が気になるところ。弁護士なんかは、こういう事案を扱う裁判では必ずと言っていいほど「情状酌量の余地」を示し、本来課されるであろう罰金や罰則の免除や減刑の正当性を訴えることがほとんど。確かに無銭飲食かつ食い逃げは許されない罪ではあるものの、初犯だったりやむにやまれぬ事情が経緯に見られる場合があったか否かで不起訴処分になることもある。どうしてそんな行為に及んだのか、それがはっきりするまでは下手に主観で煽ったり叩いたりするのは筋違いとなる。

■道を尋ねられて道案内をした…私も過去に何度も道を尋ねられたことがある。老人だったり外国人だったり様々。英語圏の外国人には、どこのバス停からどこ行きのバスに乗ってどこの駅で降りるとかいうことを紙に書いて渡したこともある。時間に余裕のある時は基本的に道案内に応じるようにしている。滅多にないということもあるけれども、現代ではネット環境も充実しているため、道案内くらいは善行と言うほどのことでもない。

 ただ、道を尋ねられて事件に巻き込まれる可能性もまったくないわけではないため、誰彼構わず道案内をするというのも正しいわけではない。他人と接するわけだから、多少のリスクはあるかもしれないと思っておく必要があるだろうし、危険を感じたなら「地元の人間ではないからわからない」という意味の返答をしてその場を去ることも考えておきたいところ。

■電車やバスでヘルプマークを付けた乗客に席を譲る…これについては賛否ある。私は、車内が空いている時に健常者が優先席に座ることには何も問題はないと考える。というのも、ヘルプマークを付けている人は普通席にも座れるからで、健常者が優先席に座ることをマナー違反などとは思わない。ただ、車内が混んでいる時にヘルプマークを付けている人が乗車してきた時には譲る、というのが優先席の本来の在り方だろうと認識している。

 ところが、世の中にはいろんな人がいて、車内は空いているのにヘルプマークを付けている人が「そこは優先席って書いてあるでしょ」と横柄な態度を見せたり、車内が混んでいる時にヘルプマークを付けている人が乗車してきたことに気付いていながらも頑として優先席を譲ろうとしない健常者がいたりする。そもそも公共の場では「お互い様」で環境が保たれているため、健常者だろうとヘルプを要する人だろうと自己中な人がいるだけでトラブルになりかねない。今は健常者でもいつか障がい者になる可能性はあるわけで、普段から周りに配慮できるくらいのアンテナは張っておきたいところ。

 さらに言うと、ヘルプマークを付けている人に席を譲っている人に対して「良い恰好したがり」みたいなことを言う人もいるでしょう?あれなんなんだろうね。一体どういう感情で言ってるのかがよくわからない。人の優しさがそんなふうにしか見えないのは、なんというか、残念としか言いようがない。“べき論”では語れないテーマの良い例だと思う。お互いが気持ちよく公共機関を利用するための行動をすればいいだけのことで、常に状況次第で判断して動けばいい。

■街を歩いていて正面から来た柄の悪い男から肩がぶつかったことを理由に殴られたためこちらも殴り返した…ネットニュース見てると、こういうドラマのワンシーンみたいなことって実際にあるんだなと不思議に思う。ぶつかったら互いに一言謝れば秒で済む話。それに、「(見た目)柄の悪い男」だからといって必ず殴ってくるわけでもないけれども、ちょっとでもこちらが相手を刺激するような舌打ちをしたり表情を見せたりすると、殴られる可能性を高めてしまうかもしれない。

 仮に、殴られたからといって、殴ってきた相手が瞬間的に無抵抗な状態で殴り返すとする。この場合は、両者とも暴行罪が適応される。相手が2回目殴りかかってくるモーションに入っている時にこちらからカウンターパンチをした場合は正当防衛が成立するため、最初に殴ってきた人のみ暴行罪が適応される。生涯、こんなトラブルにだけは遭遇したくないものだね。「君子、危うきに近寄らず」で、極力トラブルを回避する行動をしていこう。

■とある学校のクラスでのいじめ…加害側の複数名の生徒、被害側の1名の生徒という状況で起きたいじめについては、これもまた善悪で片付けるにはあまりに短絡的で、いじめの内容だけではなく、そこに至るまでの経緯を無視することはできない。結果だけを見れば複数名で一人の生徒に身体的精神的ダメージを与えることは悪いことだと誰もが思っているだろうし、そのように見えるだろう。

 ところが、経緯を辿ると、いじめられている生徒の言動や行動が発端になっていたり、その生徒の両親に関連することが要因で起きているケースもあったりする。結果的に起きたいじめとはいえ、これを隠蔽したり容認したりすることは社会問題へと発展することも往々にしてあるものの、この問題の初期段階では立場が逆だったということが後になって明らかになることもある。そういう意味でもいじめ問題とは複雑で、解決することも防止することも簡単ではない。

 いじめを止めようと仲裁しようとした生徒が次のターゲットにされたり、いじめられている生徒と仲良くしている生徒がターゲットにされたり、実のところ大人が考えている以上に“いじめの当事者”や“それを傍観している周りの生徒たち”にとっては深刻で複雑なのが“子供たちによるいじめ”だったりする。「周りで傍観しているだけの生徒も加害側と同罪」という考え方をする人も一定数いるみたいだけれども、そうと断定するのも語弊があると認識するほうがいいだろう。

 生きていればいろんなことに遭遇するし、その時々で判断を誤ることもあって、後になって「こうすればよかった…」と思うことも多々ある。こうした経験則から「こうすべきだ」という価値観にアップデートされることもあるだろうけれども、どれだけこだわっても「正解のない問題」にぶち当たれば、結局またその時にしかできない判断もあったりするため、こだわればこだわるほど偏った考え方に凝り固まっていく。

 それよりは、答えを急いだり、白黒ハッキリさせたりすることにばかり注力するよりは、主観的な見方だけではなく、可能な限り客観的な視点で物事や人の言動・行動を捉えた上で、よりベターな選択肢を並べてみることをしていくほうが、大きく判断を誤るようなことは避けられるようになるかもしれない。抽象的な結論に着地させるというのは人間社会ではどうしても必要なことで、「悪いことをしたのだから断罪するべき」とか「社会復帰できないくらいの制裁を与えるべき」みたいな過激な発言をすれば、また別の問題を発生させることになる。

 先日のニュースで神奈川県内に「地域交流型少年院」が設立したことを報じていたけれども、今、社会はいろんなところで多様性が重視されつつあり、何でもかんでも多様化すればいいということではなく、多様性を持たせることでこれまでの社会通念を上書きできることなら試験的にでもやっていく、そういう変化が起き始めている。これで未成年者への向き合い方も未成年者自身の在り方も社会全体として変わっていくといいね。寛容な社会になってほしい。卵が先かニワトリが先かの話でいうと、悪いことをしたから社会的に悪人か、社会的に放置したから悪いことをしたか、どっちかというと社会がそうさせている部分が大きいと言えるかもしれない。

【2】結局は自身を固定概念で縛るものでしかない

 長寿祈願・幸福祈願・災害祈願・病気快癒の意味で知られる千羽鶴。なにやら、戦禍にあるウクライナに「平和の折り鶴」的なものを送るとかいう記事。実際には日本製の防弾チョッキやヘルメットなど。扱い方のわからないものを送るために自衛隊派遣をする意義の希薄さと日本政府のパフォーマンスのズレが物議となっている。

 これを見てまず思ったことは、ウクライナの避難民が折り鶴をもらってもどういう意図で届いたものなのかが伝わらない文化のズレを理解していない行為であること。次に、避難民が求めているのは困難な避難生活の助けになるもので、現実的に折り鶴ではないということ。折り鶴でウクライナの人々の平和を祈っている日本人の気持ちを理解してもらうことよりも、理解してもらいたいのはウクライナの避難民の気持ちであること。

 武器の支援を連日訴えかけているゼレンスキー大統領は、こういう取り組みに対して無下にあしらうことはしないかもしれないけれども、今日明日を生き抜くために必死になっている人々に対する行為としては、折り鶴は紙でしかない。

 こういうことを言うと、言い方が酷いとか、折り鶴を送った人たちに失礼などと言われてしまうかもしれないけれども、仮に「安全な遠い島国で平和を祈ってるだけの日本人はこういうことしかしてくれないのか」という伝わり方をしてしまった場合、折り鶴を送ったことが失礼に当たることも可能性としては想像できる。

 気持ちでは何ともならない過酷な環境下であることは周知の事実なのだから、折り鶴を送って良いことをした気分になるのは日本文化のエゴとして伝わりかねない。これは日本人としての固定概念から実施されたことだろうけれども、ウクライナの人々のために何かできないかと考えた結果が折り鶴を送ることだったのであれば、送る前に結果を想定してからのほうが良かったかもしれない。

 「これくらいのことしかできないけれども・・・」という意味だったとしても、実質的に支援ができないのであれば中途半端なことはしないほうがいい。生きるか死ぬかの瀬戸際を日本人は想像できない人種だと思われても仕方のない行為。お歳暮やお中元でさえ日本でも廃れてきてるのだから、「つまらないものですけど・・・」なんて言われて折り鶴を貰っても心の支えにはならない。素直に私はそう感じる。

【3】“べき論”は自己洗脳であって他者にとっても常に正しいわけではない

 大別して三つの捉えられ方が考えられる。一つは、「こうすべきだ」というのは、胸の内で信じる分には何の問題もないけれども、これを他者に対して強く主張してしまうのは元々価値観の違う人間同士であるからして、杓子定規な言葉として受け取られてしまう可能性しかない。それに、こういう論調では聴いている側の人たちに対して「この主張に理解を示すことを強要している」とも捉えられかねない。

 次に、“べき論”を安易に展開してしまうと、盲点がある可能性を次々と破棄してしまいかねないという脆弱な論理になりやすい点。納得せざるを得ない反論をされた瞬間に“べき論”は意味を失うことになる。主義主張をするのは自由だけれども、論理の展開の仕方を間違えると「なるほど、それ以外の方法やアイデアは考えられないということか」という具合に極論としてしか伝わらなくなってしまう。

 最後の三つ目は、“べき論”として主張することで「聴いている側の人たちの選択肢」を同時に否定することになる、という点。相手の意見を聞かずして不意にすることもあるだろうし、議論するための場では議論の腰を折ることもあるかもしれない。「こちらの話を聴く気がないんだな・・・」と思われたり、「それ以上考えることを放棄してるんだな・・・」と伝わってしまったりしてもおかしくはない。

 断言してしまう癖というのは厄介で、断言したあとに実はそうではなかった場合、もしくはそうではなくなった場合、いちいち弁明しなければならなくなる。学校の校則で「ツーブロックは禁止すべきだ」というのも良い例で、その理由付けに何の根拠もないことが露呈して却下されるという落ちに。“べき論”を切々と語っても「え、別に良くね?」って大多数の人たちに思われたら、その瞬間からいくら主張しても何一つ理解してもらえなくなる。結局一体何のための主張だったのかと、聴衆をポカーンとさせてしまうことに。

 なんか杓子定規なことを言っている・・・と思われてしまうということは、「正しいわけではない」し、“価値観の違い”として受け取られてしまえば批判を浴びせられるだけの時間にもなるかもしれない。なおかつそれが古い考え方で現在の状況や環境にそぐわない物言いだとすれば、「この人は現状を何も把握してないんだな」とも受け取られ、信頼さえ失うことも。

 現状をよく把握した上で主張する際は、複数の提案内容に対して断定するような論調は必要ないんだよね。つまりだ、根拠の希薄な主義主張をする人たちほど自己洗脳タイプの“べき論”を乱用しがちということ。

【4】相手の意見に理解を示せる人は“べき論”は使わない

 議論をする場で、相手がまだ話しているのに食い気味で自分の発言を被せてくる人がいるでしょう?こういう人って途中から相手の話を聴いてなくて自分の主張をしたがる傾向にあるんだけど、クッション言葉的に「確かにそうかもしれませんけど」と添えてから主張するんだよね。互いの意見が堂々巡りで繰り返されるだけの言い合いになりやすい。

 強い思いがあって主義主張をするにしても、まず相手が意見を話し終わるまでじっくり聴く姿勢ができなければ、相手の意見に対して(具体的に)理解を示すこともできない。

 議論のテーマがどんなものであれ、相手の意見をじっくり聴ける人というのは、賛同できる面とそうでない面との両面から捉えつつ相手の話を聴いているんだよね。

 賛成か反対かの論争にしても、互いに意見を全否定すればいいというものでもない。綿密に理由付けされた意見に耳を傾ければ、いくらこちらに対する反対意見だとしても部分的には「確かにそうだな」と納得できるところが少なからずあるもの。なおかつ、互いにそういう丁寧な議論が進めば、最終的には落としどころも定まってくるはずなんだよね。

◆最後に・・・

 日本は、ディベート文化が他国よりも質的に劣っていると感じられる。劣悪な議論からはこれといってベターと思われる落としどころもなかなか見つからず、進展のないまま議論が不完全燃焼で終わるケースは多々あるように思われる。

 日本の未来に若者たちが希望を抱けずにいるのは、そういうところにも起因しているのではないかと思えてならない。偏った主張しかできない人は、なるべく議論の場には顔を出さないほうがいい。それだけでその議論にかかる時間が長引くし、コストに無駄が生じる。

 会議だ打ち合わせだと定期的に実施されているのに、何のための時間だったのかわからなくなるようなら辞めたほうがいい。

 もっと古い考え方に固執せず、質の高い発想豊かな議論の場が増えていけば、日本の未来にも希望が見えてくると思う。そういう習慣が根付くことで、人生やお金や仕事などに対する価値観のアップデートもしやすくなっていくのではないだろうか。

 もう根拠の希薄な古い“べき論”なんかで人々の価値観を縛り付けるような主張はやめる“べき”だ(=笑うところ)。

 総じて、“希望”とは、古い既成概念や慣習、常識などに縛られずに、未来を見据えた想像やアイデアの先に見えてくる光だと私は思っている。意見の受け売りや他人任せはせずに、自分で考えて、自分の言葉で意見を言えるようにしておきたいね。今求められているのは、型にハマった考え方の人ではなく、過去を切り離した未来志向型の考え方に上書きできる人だ。

※今回も最後まで読んでくださりありがとうございます(・∀・)また次回もお楽しみに☆

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