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◆次元の違う場所は色も違う

 社会が問題だと騒いでいることが自分にとっても問題であると、そう思いたい人たちが多いんだろう。私も一時期は「当事者意識」って言葉に感化されて、それを前提に物事と向き合い考えていたことはある。でも、実際は、自分が勝手にそうであるかのように思い込んでいたにすぎないのだということに気付いた。

 例えば、ワクチン接種をするもしないも自由で強制されることではないと言う人もいれば、反ワクチン的な考え方を持つ人たちは社会悪だと豪語する人もいる。

 では、どちらが正しいのかと問うても、ハッキリとどちらが正しいかを断定できる人は一人もいない。なぜなら、両者は真逆の考え方を持ち、互いに相反する正義を掲げているからであって、両者にとっての正解がないからこそ物議を醸しているわけで。

 一般的には、社会的にも世界的にも問題視されてきたコロナではあるものの、あまりにリスクを煽る政府やメディアの在り方にも、あまりにも陰謀論的な論調で反ワクチンを訴える態度にも双方に対して疑問を抱いている人たちも少なくはないだろう。なぜなら、正解がないから。

 現代において、人は自分が信じる正義を掲げ、その正義に対立する人々を敵と見なし争っているけれども、いくら時間が経とうと同じことを繰り返している。どこかこう、争いを好んでいるかのような印象も受ける。

 ところが、問題だと騒ぐその背景には、事の内容によっては利権が絡んでいたり、単に立場を貶めるべく足を引っ張るための訴えだったりと、どの問題も事はそう単純ではなかったりする。

 そして、様々な問題に対して世論が騒いでいる一方では粛々と事を進めている政府の存在に気付いた世論が、待っていましたと言わんばかりにメディアを巻き込むような騒ぎ方をしてみたりする。

 知る権利を主張するのは良いとしても、あまりにも一般市民がいろんな問題に首を突っ込みすぎているきらいがあったりする。

 誰が言っていることが正しいのか、そういう結論の急ぎ方を常に繰り返している。もはや正しいかどうかよりも、ミスや失敗を想定内に収めた上での即効性だったり実効性だったりを示すほうがよっぽど説得力がありそうだけれども、どうも現代における判断というのはネットの声に左右されがち。結果、事がいちいち足踏みをして無駄に議論が繰り返されて肝心の結論が先延ばしにされている。

 日本にも優秀な人たちが多くいるはずなのに、どういうわけか悪化に歯止めをかけられないのは、結局のところ自分の利益にばかりすがる人たちがそれだけいるからではないのか。わざわざ自身の立ち位置を危うくするような議論や結論についてクソ真面目に語る人はなかなかいないのかもしれない。

 自分の利益に走るよりも、自分の幸せのためにできることをやるほうがよくて、それを世間のいろんな問題による影響で不意にしてしまわないように、余計に首を突っ込まない、余計に他の次元に立つ者たちを刺激しない、そういう意識が今もっとも重要視されるべきことなのではないかと思えてくる。

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