【Chapter4】エヴァンゲリヲン×価値観/Part2
今回ですね、エヴァ×価値観×Abema Primeの3種を掛け合わせて言語化していきます。1テーマに2サブテーマの文章構成、めちゃくちゃ書きやすいですね。皆さんも是非お試しください。
なんでAbema Prime?と思いますよね。最新の動画のテーマがちょうど噛み合いそうだなと思いまして引っ張って来ました。アベプラって本当に面白いですよね。歯に衣着せぬ議論、そこに垣間見える感情、さらには熱を帯びた論者をブッた斬るひろゆきさんやMC平石さん、ボクは好きですね。
Part2:当事者のみが知る苦悩の訴えと第三者批判
まずですね、この動画を終始観ていただいてから続きをお読みください。時間はおよそ30分前後の動画にはなりますが、じっくりと全ての人たちのコメントに耳を傾けてみてください。
伊是名さんの公式ブログで投稿された記事のタイトル、JR駅員とのやり取り、事前事後の様子、出演者のコメント、ご覧になられてどんな印象を感じましたか?ボクはココに注目しました。
「差別されている意識」がどうしても強くなるのかもしれませんね。今回の主張を一通り見る限りでは、ベクトルがほぼ自分に向かっていて、JR側の主張へ示した理解には不足を感じざるを得ないといったところです。
何より、自身がどういうステータスの人間であっても、「相手に何かをお願いする」という時には、相手の事情が今現在どういうものなのかを聞き、それに対して理解を示すことが重要で、その上でさらにお願いする場合にも、「やってもらって当たり前」感が伝わらないように「なんとかお願いできませんか?」と低姿勢で伝えることが大切だとわかります。
人間、例え言っていることが正しくても、マナーやモラル、礼節や礼儀に欠けてしまうと、いくら訴えても聞いてもらえなくなってしまうものです。
また、今回の討論の後半で、「同じように苦しんでいる人たちがかわいそう」発言をしたことで、一層印象が悪化したように見受けられました。「他者の弱さや苦しみを議論に持ち込む」手法は、いくらでも言いようがありますから、見方を変えると「卑怯なやり口」という印象も与えかねません。
「あなたはどうお考えですか?」と聞かれているのに、「他者がどうのこうので、自分だけが特別扱いされるのは違うし、悲しく思います。」という言い回しは、論点ズレまくってしまったわけです。
そして、途中、わざわざ熱海駅まで来てくださった4名の駅員さんへの感謝の気持ちは後付けで、少しも伝わってきませんでしたね。
あくまでもこれはボク自身の持論ですけれども、怒らないで読んでくださいね。社会的ステータスにハンデがあろうとなかろうと、「自分たちは弱い立場なんだから〇〇は当たり前ですよね?」と、弱いアピールしているのに上から目線で来る人に対しては、真っ直ぐ向き合う気にはなれません。
そうやって、当事者だからといってその立場を利用して上から来るのであれば、そういう態度を見せる人でも対応してくれるところにご相談くださいと内心では思ってしまいます。
立場的に、権力的に強いから傲慢でいいわけではないですし、弱いから低姿勢にすべきということでもないんですよね。主張すべきことは主張すべきですけれども、そもそもお互い対等だとかこっちが上だとか思い込んだり、客だから、ハンデがあるから、女性だから、などと、いろんな立場を振りかざして弱いアピールをしつつ上から来るのは、言い方悪いですけれども「狡猾」ですよね、やり口が。
しかしながら、元より社会的ハンデがありながら家庭を持ち、子育てもしているところを見ると、なるほど伊是名さんは正真正銘の「肝っ玉母さん」なのだと察せられます。それ故の強気で毅然とした姿勢を張っていたのだというところは理解に至るところです。むしろ頼もしいお母さんですよね。
真剣になったり感情が高ぶったりすると、人間視野が狭くなるものですし、語気も荒くなりますし、意識や配慮の至らない部分が盲点となってしまったりして、なかなか自己主張するのも難しくなってしまいますよね。経営業の理由からローカル駅が閉鎖される可能性についてがまさに彼女にとっての盲点だったのでしょう。知るは一時の恥、知らずは一生の恥とも言いますからね。
エヴァで碇シンジが初めて初号機に乗る時のシーンで、彼はこう言いますね。「なんでボクがエヴァに乗らなきゃいけないんだ!どうしてなんだよ!」と。これこそ当事者にしかわかりませんよね。
でも、このアニメで言うと、ボクらはみんな「自分初号機」に搭乗しているようなものなんですよね。自分が自分初号機とのシンクロ率が低ければ、意思が働かないし、そりゃー暴走しやすくもなりますよねってことです。
エヴァがわからない人、知らない人、観たことない人は、第1話から劇場版まで全て観てみるといいと思います。ただ面白可笑しいアニメではありません。
当事者意識という言葉がありますが、当事者外意識、つまり「第三者意識」というのもあると思うんですよね。聞いたことはありませんが、裏を返せばそういうことです。自分が社会的ハンデを背負っていたとして、言うて自分とまるで同じ境遇の人と出会える確率なんてよほどのことがない限りあり得ないと思います。それからすると、ネットの力もまた強大になったものですね。
第三者意識は敵に回せば超巨大な集団暴力と化します。不公平感を感じることはきっと多いのかもしれませんね?でも、だからといって「不公平だ!差別だ!」と喚き散らかしていると、誰も耳を貸してくれなくなります。
相手の言葉に、なんで?どうして?って噛みつくことくらい誰だってできらぁーな。主張すれば理解してもらえる、主張すればなんとかしてもらえる、そういう考え方に偏り気味な人って今どれくらいいるんでしょうね?
しかし反対に、これだけ堂々と主張するというのもなかなかできることでもありません。これからどうするかを一緒に考えて選択肢をたくさん持っておくほうがいい、これについてはハッキリ言うと机上の空論ですね。騒ぎ立てれば企業が動くという考えも浅い気がします。
サービス提供・商品販売側は顧客からの声で変わっていくというのも昔よりはだいぶ進歩したと言えます。ところが、その日、その時、そのお客様のためだけに特別な対応をするというのは、それこそ分断を生むしかなくなります。
男女平等もそうですけれども、人権侵害やら人種差別やらも、今となっては現代社会にベッタリとへばりついた社会問題と化してしまいましたが、あまりに騒ぎ立てれば逆に助長悪化させてしまう恐れやそういったリスクが生じてしまう可能性があることも忘れないようにしたいですね。
※次回Chapter5Part1、お楽しみに!(・∀・)
ローカル駅でなおかつ階段しかない無人駅で、わざわざ複数の駅員に来てもらった上に、運ばれている最中に車いすから落ちて怪我や死亡なんてしたら、きっとその人達に対して感謝するどころか憎悪が沸いてくるような気がしますが、どうなんでしょうね。
理解してもらえるだろう、わかってもらえるだろう、やってもらえるだろう、運んでもらえるだろうが当たり前の認識でいると、いきなりそういう予期せぬ事態が起きた瞬間に、かなりパニックを起こすと思います。
期待するから、期待通りにならなかっただけでイライラしたり腹が立ったりしてしまうのです。期待せず、冷静に、これまで生きてきたことを考えれば、事あるごとに誰かが悪いわけではなかったはずでしょう。
確かに、いますよね、常に誰かを敵視していないと気が済まない、言わないと気が済まない、やり返さないと気が済まないと言う人。こうなるともはや価値観云々の問題ではなくなりますよね。
平等であることを理想とした場合、その先に生じる不平等をどう捉えるのでしょうね。一度完全に平等な社会になったとしても以後ずっと平等というわけにはいかないでしょうに。これはもう幸福と不幸の波のようなものではないでしょうか。
いつまでも、議論は尽きませんね(・∀・)
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