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信じ切るから裏切られたと錯覚する

 心を許せる人間関係なんてその辺に転がってるものではない。イイ顔して近付いて来る人間の中にもいろいろいて、本性に悪意のある者、ない者、悪意の有無に関係なく、互いの目的のために「信頼関係」を求めている者、そういうことでもない、ほとんど他人同然のつもりでいる者、本当にいろいろいる。

 この人のことは信じられるけれども、この人のことは信じられない、そんな単純な見方で人を仕分けようとするからハズレの割合が上がる。誰とでも仲良く?あり得ない。そこに共通の目的がないのならもっとあり得ない。

 大人になっても友達が大事だと思えることを否定する気はないけれども、人間、大人になったらこの社会を生きていく上でその人しか経験しないことがいくつもある。それに、働くとなると、会社にはそれこそ自分が経験していないことを経験している人たちが集まるため、理解に至らないことがあって当然。

 未だかつて、職場の人間と仲良くすることに意味を感じたことがない。というのも、何回も職場が変わる、そういう経験をしている人たちが現代社会には非常に多いはずだが、今現在、過去自分が働いていた職場の人間たちとの繋がりを保ち続けている人間がどれほどいるというのだろうか。

 地元を離れ、他県を転々としている人間からすれば、小中高の同級生のことを今でも友達だと思っていることのほうが珍しく、それは大人になっていろんな職場で働くようになっても、かつて働いていた職場の人間たちが今も仲の良い間柄だと思いたい人がいるのかどうかは心底怪しい。

 相手が誰であろうと、人を信じることも、信じないことも、それは本人が自由に判断することだろうから、これに正解はないのかもしれない。ただ、無防備に信じ切れば裏切られたと感じることが増えるだろうし、極端に人のことを信じないと決め込むことも、多くの機会を失うことになる。

 45歳テレビアナウンサーの逮捕については、この件だけではなく、人間は、年齢が重なれば重なるほど多くの機会を失い続けるために、これまでずっと溜め込んできた欲求を抑えきれなくなる生き物だということを示す事件は、過去にもたくさん見てきた。

 およそ人が人道を踏み外すのは、30代や40代ではないだろうかと感じられるほど、その年代の人間が起こす事件が散見される。

 好きという純粋な気持ちであるならばそれなりのアプローチの仕方があるはずだけれども、今回のケースは、異常性を含む性癖。まともな思考が働かなくなると、どんなにこれまで真面目で誠実な人だと思っている人でもこういうことになり得る。

 果たしてこれは他人事なのだろうか?と、一度くらいは考えてみても損はない気がする。人間の癖は自分ではそうでもないと思っていても他人から見れば異常な癖に映ったりする。

 批判するだけなら簡単さね。だからと言って擁護もしない。学べる部分や教訓にすべき部分がどんな出来事にも潜在する。冷静に物事を捉えて、潜在している学びや教訓を見抜いて自身のものにする、そういう捉え方ができれば、単細胞なネット住民がやってるような一辺倒な批判なんかしなくなると思うんだが。

 なんだろうね、犯罪だとか迷惑行為だとか頭では分かってても、そこに快感?スリル?があると抑えきれなくなるのかな?

 基本的に人に固執したり他人に意識を囚われたりする人って、その度合いが重度化すると、誰でも犯罪者になってしまうわけよね。

 反対にね、他人のことなんかどうでもいいってのも偏り過ぎ。結局そういう考え方が自己中な人間を作る。

 別に好い人ぶって生きなくてもいいじゃん。なんで皮を被るんだ?素の自分でいて何がいけないんだ?素でいる自分を嫌う人間は嫌いたいから嫌うんだろう?彼らは自ら脇役を志願して嫌うのさ。

 嫌われて、嫌われて、嫌われ続けて、それでも自分でいられるのなら、そのまんまでいいんじゃないの?誰の人生を生きてるんだ?人に嫌われないために生きてるのか?つまんねーの(笑)

 いちいち人を好き嫌いで見てる人間に興味はない。これはたぶん、この先の人生で変わることのない信念の一部。もっと見るべきことは他にあるでしょうに、自分で勝手にこの人は好き、この人は嫌いって決めて、嫌いな人のことまで考えて、何がしたいの?って思うんだが。

 中庸(ちゅうよう)って究極だなーって思う。中庸なのに究極ってどういうことよ(笑)「偏りのない」ってことね。つまり、2極思考で常にどちらかに考え方が偏ると、理解に苦しむことが増えるんだよ。自分で落としどころが見つけられなくて、嫌いなものは嫌いっていう考え方を改めることなく、嫌いなことについて考えたりブツクサ文句を言ったりする時間を浪費することになる。

 人生時間を100として、一体どれくらいの時間を嫌いなことに浪費すれば気付くのだろうか。20?30?50?そんな時間、ないほうがいいに決まってるじゃないか。

 なんで嫌いなのかを考えられる冷静さと、好きになれる部分がないかを見抜く瞳があれば、モノや出来事や人に対する視方は、常に偏りなく、複数方向から捉えられるようになる。

 見た目がイカツい強面の兄ちゃんは見た目通り怖い人ではないかもしれないし、大人しそうな人が見た目通り温厚な人ではないかもしれない。よく聞くじゃん。怒らせると怖いのは、普段大人しそうな弱弱しい性格の人だ、と。最悪、その人をおちょくった人間のうち誰かが死ぬ。

 面白半分、冗談半分、そういうノリで人の感情を弄ぶ人間は、悪気はなかったって後付けのように言うけれども、人間の感情は時に想像を絶するパワーを発揮する。

 目、鼻、口、耳、眉毛、まつ毛、おでこ、ほっぺ、髪の毛、顔全体のパーツだけではなく、胴体があって、腕があって、指があって、足があって、、、、、あーもう!!全部一緒でしょー。パーツで言えば人間は誰でも一緒。

 でもさ、人相は違うよね。考えることも違うし、やることも違う。経験することも、違うよね。どんなふうに生きたかで、人相も心の性質も人によって違う変化の仕方もするし、性格だって変わっていく。

 毎年、毎年、自分は自分だと思いたいのは山々だけれども、誰だって人は変わっていく。ある時の変化を迎えた時に、人道を踏み外す可能性はゼロではないかもしれないよね。

 だから、どんなニュースも、毎度他人事みたいに考えてスルーしてはいけないんだってボクは思うよ。とりあえず、どんなふうに捉えられるかを試すくらいはしたほうがいいって。これは、人に対する視方にも共通して言えること。

 人が言ったことが全てではないでしょう。人がやったことが全てでもないでしょう。見たまんま、聞いたまんま、その人の人格を自分が思いたいように思うのは違う。

 悪魔も仲間に対しては善人だし、善人でも欲望を抑えられなくなったら悪魔になる。これが人間の本性だ。だから、信じるとか信じないで人を視るのは危険なんだよって話。

 この文章も読んだ人がどう捉えるかは見物だが、それは自由だ。そのあとのことまでは干渉する気はない。

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