アイドルは希望か、それとも呪いか(『推し、燃ゆ』を読んで)




「推しを解釈することに心血を注ぐ主人公」という設定に親近感を覚えてこの本を手に取った。読み始めてすぐ、主人公である彼女とは分かり合えないことに気が付いた。
 




私たちは、特定の著名人や作品を熱心に応援する人々のことを「オタク」と呼ぶ。しかし、その中にはたった一つの呼称では一括りにできないほど多様な考えを持つ人間がいる。


そんな広い枠組の中、確かに彼女と私はどちらかといえば近しい感性を持っている類だと思う。認知が欲しいわけでも、繋がりたいわけでもない。できれば有象無象の一部でありたいという彼女の思考には、まったく同感だった。推しに認知され、繋がりたいと考えるオタクが多い中で、それを望まないというだけで推しに対するスタンスはかなり近いといえる。さらに、推しの発言や行動を注視し、推しを解釈しようという姿勢も理解できる。もちろん彼女のように発言を都度書き起こしてまとめるようなことは実際には不可能だしやるつもりもないけれど、些細な欠片も拾い集めて自分の中で消化したいという気持ちは理解に容易い。


オタクという括りの中で、私と彼女は一見同類に見えた。もし彼女が実在して、同じ界隈を推していたとしたら、他の子よりも話が合うだろうと思う。でもこれは小説で、彼女はこの小説の視点となる主人公だ。実在するオタク仲間だったとしたら知りえなかったはずの彼女の私生活を垣間見、思考を読み取ることができる。そうすると、オタクとして近い場所にいるからこそ、私と彼女は決定的に、そして根本的に違うということが明確になっていく。人間として考えた時の彼女は、私には少しも理解できないほどにかけ離れた存在だった。




 
私にとって、推しの存在は間違いなく私自身の生活を豊かにするものだ。
彼女も、きっと同じようにそう信じていたに違いない。けれど彼女にとって、上野正幸は本当に希望だったのだろうか。彼女が妄信した上野正幸という希望は、本当に彼女に幸福をもたらしていたのだろうか。



 
彼女の視点で綴られる彼女の生活を読んでいると、上野正幸は彼女の生活に素晴らしい影響を与えた希望のように思えてくる。

実際、彼女は推しのために働き、どんなに食欲がなくても推しがいれば胃にものを入れることができた。逆に推しとは関係のない学校生活にはどうしたって順応できなかったし、家族関係も就活も、推しにつながる"何か"がなければ何もできない。言葉の通り、彼女の生活は推し中心に回っていた。

だから彼女は、上野正幸を推すという行為が、自分の人生の背骨だと信じていた。それがなくなってしまえば、自分は生きていけないと本気で思っていた。しかし、推しが人になり、自分が背骨だと信じていたものを失い、何もかも滅茶苦茶にしてしまおうと考えたとき、彼女が手に取ったのは出しっぱなしのコップでも、汁が入ったままのどんぶりでも、リモコンでもなく、綿棒のケースだった。

それは、自分の核だと思っていた推しがいなくなったところで、世界は何も変わらないし、自分の生活だって止まることなく続いていくことを分かっていたからだ。




そうであるなら、彼女にとって上野正幸は希望ではなく、呪いだったのではないか。そう考えてしまうのは、私が彼女より精神的に強く、環境にも恵まれているからだろうか。




 
そもそも心身ともに概ね健康に生きてきた私には、彼女の気持ちを理解することは到底できないのだと思う。発達障害か、精神疾患かは分からないけれど、何にせよそういったものを抱える彼女の思考は、私の理解の及ぶところではないのだろうし、自身を取り巻く環境についても同様だ。


私の場合は家族仲も良好で、勉強も昔から平均よりはできた。多いとは言えないが信頼できる友人もいるし、金銭的にも不自由することなく満足な生活を送っている。そんな私にとって、温度の低い会話しか生まれない彼女の家庭環境も、勉強を避けて中退するという選択も、理解に苦しむものでしかなかった。

だから、推しを失った彼女がすべてを投げ出して、生きることを諦めてしまったのだとしたら、彼女にとっては本当に推しがすべてで、生きる希望だったのだ、と納得できたのかもしれない。その選択には理解も共感もできないけれど、私にはわからない、彼女なりの思考があるのだと納得することはできたはずだ。



けれど彼女は、その選択をしなかった。推しがいなくなった世界で、これからも自分なりに生きていくことを選んだのだ。


推しがいない人生を選択できるのが彼女なのだとすれば、そもそも推しと出会っていなければ、あるいはもっと早くに推しから離れていれば、彼女はこんなにボロボロになることもなかったのではないだろうか。

彼女は「推しがいるから働くことができるし、食事をとることができた」のではなく、「推しがいるから働くことと食べることしかできなかった」ように思えてしまうのだ。

彼女は、自分は推しという希望があるからバイトも頑張れるし、毎日ギリギリではあるけれど生活ができている、これが今の自分にできる最大限で、それ以上はできないと信じて疑わなかった。しかし実際、彼女は推しのいない世界で、今まで自分を動かしていると信じていた存在を失った状態で生きていく。これからを生きる決意をしたその先は描かれていないけれど、きっと彼女は不格好ながらも働き、食事をし、家事をしながら毎日を生きていくのだろう。


推しなんていなくても、できるのだ。なぜならどれだけ推しを解釈し、深く理解したところで、彼女は推しとはまったく別の「あかり」という一人の人間なのだから。


だから今までだって、頑張ることはできたはずなのだ。それなのに彼女は、推しがいなくてもできることを、推しがいるからできるのだと勘違いして、他のことは推しがいないから頑張れないと、自分に暗示をかけてしまった。近づくことも遠ざかることもない、一切の干渉を妨げるステージと客席の隔たり分の優しさは、彼女の弱さの逃げ場になってしまっていたのだ。


そういう意味で、彼女にとっての上野正幸は、希望に似た呪いのようなものだったのだと思う。
 




「推しを解釈する」という、同じような方法で推しを推す私と彼女なのに、彼女だけが推しを呪いに変えてしまったのには、理由がある。本人の持つ能力や特性、家庭環境もその一つだけれど、最も大きな原因は、「推しを解釈する」ことの目的だと、私は思う。




彼女が推しを解釈する目的は、推しに追いつこうとして、推しを理解しようとして、推しのために生きることで、自分自身の存在を証明することだった。


自分自身の存在の自認が不安定だった彼女は、生きていく中で精神的に最重要ともいえるその部分を推しという他者に委ねてしまっていた。本来なら彼女自身が考え、選択されるべき生活の主体は、推しにとってかわられてしまった。これが、推しを呪いに変えてしまった原因なのではないだろうか。


私たちは生きていく中で、数えきれないほどの選択を常に迫られている。朝は何時に起きるのか、二度寝をするかしないか、朝食をとるのか、とるなら何を食べるのか、今日は何を着るのか、靴はどちらの足から履くのか…。そんな取るに足らない小さなものから、進学先や就職先、結婚相手など人生を左右するような大きな選択まで、死ぬまで選ぶという行為から逃れられない。

どの選択肢が正解かなんて誰にもわからないし、どちらを選んでも失敗なのかもしれない。でも例えばそれが失敗だったとして、自分で考えて選んだ選択で痛い思いをしたならば、自分で選んだ道なのだからと後悔こそすれ、自分の中で消化して納得することはできるだろう。けれど、その選択をもし自分でないだれか、何かに委ねていたとすれば、自分のせいではないその失敗を受け入れることは難しい。自分は悪くないのに、なぜこんな仕打ちを受けているのだろうと考えてしまうからだ。


推しのためにしか生きられなかった彼女は、生活の諸々について頑張るという選択ができなかった。精神的に依存している推しにとって、それは不要な努力だったから。学校に行っても推しが笑顔になるわけではないし、家族と話し合ったところで推しの順位が上がるわけではない。けれどその結果壊れてしまった彼女の生活について、推しは一切責任を取ってはくれない。当たり前だ。推しは彼女と何の関係もない、他人なのだから。
 




一方で、私が推しを解釈する目的は、私自身が彼らの紡ぐ物語をより楽しむためだ。

私にとって、アイドルを応援することは読書とほぼ同義である。「ジャニーズは一大叙事詩である」とはよく言ったもので、幼いころから特殊な環境に身を置き、仲間であると同時にライバルでもある同世代と切磋琢磨し鎬を削り、共に泣き共に笑った果てに栄光を掴む、彼らのその活動のすべては私にとってどんな名作にも勝る物語に思えた。

私が彼らの発言や行動を注視するのは、より多くの情報を知ることで物語のからくりや見えづらい感情の変化に気づき、十分にストーリーを楽しむため。私が課金してまで足繁く現場に通うのは、ステージで輝くその瞬間も物語にとって重要な1ページになるから。私が同じCDを何枚も買って売り上げに貢献しようとするのは、彼らが紡ぐ物語が、私が望む展開になるよう誘導するため。すべて私のために、私が考え、私が選んだ行動だ。彼らに感情移入してしまうから、辛くなることも涙することもあるけれど、そうやって感情を揺さぶられることさえも物語を楽しむことに含まれているから、結果的に彼らを推すという行為において、常に私は楽しいし、嬉しいし、幸せでいることができる。

私にとって、推しを推すということは完全に娯楽である。だから物語の登場人物である彼らから読者である私個人に対して何かしらのアクションを求めることもないし、キャラクターである彼らが私の生活における選択に影響を及ぼすこともない。私は、ページの向こうで繰り広げられる物語を楽しむ一読者でしかなく、彼らと私の生活が完全に隔絶されていることを理解し、それがあるべき姿だということもわかっている。だから私の人生において、この先も推しが呪いになることはないのだろう。
 




推しはオタクにとってとても大切な存在だ。推しのためならなんだって頑張れる気がするし、推しの笑顔は精神的な支えにもなる。けれど、どんなに好きで、大切でも、私たちが彼らの私生活に関与することは許されないし、彼らが私たちの人生の選択を左右するようなことがあってはならない。ステージと客席の隔たりは、互いの人生を守るために、推しを希望たらしめておくために必要な、不可侵領域だったのだ。

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