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生涯②

ここまでは一意専心だった

この前に書いた生涯①では中学卒業までを乱雑に。
ここからはその続編を。
入学を決めた高校も県内トップクラスのスポーツ校かつ男子校。
スポーツ学科、普通科、進学科と3つあるが、自分は普通科に。
スポーツをしていない人が、この高校に行く意味ある?くらいに、
THE男子校のような環境でした。(私立なのにボロい校舎&部室など)
しかし、野球部は甲子園、陸上やバドミントン、自転車競技部、柔道部などは地方大会以上は常連というほどの強豪(他の部活も)

そんな自分が入部していた陸上部は、短距離は無く長距離のみ。
しかも、自分の代は後に歴代最強のチームと言われるほどに…
もちろん、ここでもほとんど最下位スタート、そんなの当たり前だ。
中学で全国に出場している人(同じ中学)や県大会で上位入賞者がうじゃうじゃ先輩や後輩にいるといったカオスな状況だった。

陸上というのは誰が見ても早いor遅いが数字でハッキリと見える、これほど過酷で残酷なスポーツを何故、強豪校で始めたかといえば、それには中学3年の時に夢ができた。
正月の箱根駅伝を走りたいという夢のまた夢を追いかけたからだ。

自分は中学の時から故障が多く、それは高校でも変わらずだった。
中学から高校までの6年間のうち3年間くらいは故障という日々。
故障者なりに出来ることを必死に考えて朝練は誰よりも早く来たり、グラウンド整備をしたりとコツコツ出来ることをした。(ある意味雑用係)

そんな自分に転機が突然訪れたのは高校2年の冬の駅伝大会(地方大会)だった。
自分は補欠で旅行気分(2泊3日)で浮かれていたのだが、走る予定の選手が故障で走れなくなり、前日に監督から「お前、走らせるぞ用意しとけ」と言われた。(緊張で落ち着かなかった)
大きい大会(地区大会含め)なんてこれが高校初めてのレースだった。
ましてや走れない選手と自分の持ちタイム差は40秒近く、実力差は歴然だ。
いざレース当日になり、走り終えた自分は先輩達のラストレースで大した走りが出来なくて、申し訳なさと悔しさから泣きじゃくった。

そして、先輩がいなくなった高校3年の1月ごろ。
この頃から故障も無くなり、多くの大会に選出されるようになっていた。
自分はタイムもそんなに早くないのに、部長に推薦。(多数決で満場一致)

そんなこんなで春と夏を過ごして、また中学と同じく進路で迷った。
高校から大学へのスポーツ推薦は諦めて、指定校推薦を取る方向にシフトしていったが、0.1の差で行きたかった大学への指定校推薦から外されてしまい、夢である箱根駅伝からさらに遠ざかった。
大学の駅伝部となると持ちタイムが入部条件となるパターンが多く、それもまた障害としてのしかかってきた。
しかし、自分の代は歴代最強クラスのランナーがいたおかげで、いろいろな大学の監督が自分以外の選手に声を掛けてくれていたのもあり、おこぼれで某大学からスポーツ推薦を頂けた。

またしても受験戦争から逃げるという、嫌なことから逃げる逃げ癖のようなものがこの頃から自分に芽生え始めていたんだと思う。
そんな大学生活は紆余曲折の始まりである…。

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