これは私の一つの遺書である。

 恥の多い生涯を送ってきました。

 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

 と言う書き出しから始まる自叙伝を書こう、そう思い立った令和三年の冬。それは、神奈川県川崎市というそれなりに栄えた土地からでもオリオン座と天狼星が綺麗に見えた日のことだった。

 書き出しは太宰治の人間失格からであるが、私も東北の片田舎出身で、というか太宰治という作家の生まれ育った街が私の育った街でもあるから、最早マブだと思っている。なにを言っているかわからないと思うが、太宰治の生家がある青森県五所川原市(旧金木町)は私の庭で、斜陽館と呼ばれている太宰治記念館、旧津島邸が旅館として営業していた頃に母の職場の宴会で利用し、広間でご飯食事をしあの畳の上を転がったこともある。本当に、嘘偽りなく、地元なのだ。地元民故、このようなことも許して欲しい。日本文学をあまり読まず育ってきたわたしがちゃんと読んだことのある作家が太宰治で、イチファンでもあるし、多めに見て欲しい。著作権も切れてるし。余談だが初めて自分の財布からお金を出して買った日本の文豪などと呼ばれる人物の本は中原中也の詩集だった。因縁を感じる。

 閑話休題

 余計な話をしすぎたため、本題に帰ろう。

 なぜ自叙伝を書こうと思ったのか、なぜそれが遺書たるものなのか。

 それは、おおよそ20年前の私が『30歳までに死にたい』そう強く願ったからである。当時の私は小学生にして「人生はクソ」という考えに至りとにかく死にたい消えたいそういう気持ちで生きていた。それと同時に、今この状況に屈して死んでしまうのは負けた気がして嫌だ。いろいろなことがあったが悲しみよりも上回ったのは怒りの方だった。「復讐心」とも呼べるような怒りを原動力にしていた。

 そんな私が大人になって、アラサーと呼ばれる年齢になって、現在、死にたいと言う気持ちは消えておらず、毎日過ごしている。怒りだったものは薄ぼんやりとしていて、惰性で生きているようなそんな状態になってしまって。誰の記憶にも残りたくない、と思いつつも、それでも誰かの記憶に残りたい、私は確かにここにいたのだという証明が欲しいと思ったのだ。

 ほんとに些細なことだった。酒の席で自分の話や愚とを言った時に。私の話を聞いた人たちが皆口を揃えて、そんな人生なかなか無いというものだから。じゃあ、こんな人生を送っている人間もいるのだということを刻んでやろうと、そう思ったのだ。

 このnoteは私の自叙伝であり、日記である。

 文章を書くための勉強なんてものは特段したこともなければ、こんなネットの海の傍で 誰に見てもらえることもないだろうから、読みにくさやわかりにくさもあるだろうけれど。

 誰か、ここを見つけてくれたらなら。

 誰かの記憶に残ることができたなら。

 嬉しいなと思う。

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