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暴力の連鎖を砕きたいがどう動けばいいかわからない

悶々とする日が続いている。

いわゆる「社会的弱者」といわれる人たちを対象にした就労支援を仕事にして10年経つ。                            経済的にも精神的にも行き詰っている人たちは、多くの場合暴力にさらされた経験がある。                          一言で暴力といっても様々な形がある。親から子、夫から妻(またその逆)、障がい者、ジェンダー、そして、身体的、精神的という手段も、その暴力が起きる背景も千差万別で、誰一人として同じではない。

そういう状況に陥った時、自分を責め続ける人と、世間を恨み続ける人がいる。一見、正反対の態度のようだが、自分を大切にできない点でこの二つは同じだ。それが暴力によってもたらされる、最も根深く、恐ろしい結果だと感じる。

一旦困窮状態に陥ってしまうと、自分を大切にできない人にとって自立は非常に困難となる。自立を支える情報に触れても、わが身に置き換えることができないのを何度も見てきた。                    DVを受けながら逃げ出せないのも、生活保護受給に甘んじて息をひそめるように生きるのも、掘り下げれば、暴力によって命の深いところに刻まれた「諦め」という根にたどり着くように思えてならない。

暴力によって生きる力を削がれた人は、自分を大切にする術を知らないために、次の世代を育てる手段として慣れ親しんだ暴力を用いる—という理屈は、今や世間の常識となっている。                  この暴力の連鎖、ひいては貧困の連鎖を食い止める手立ては無いか。多少なりとも経験のある「文章を書くこと」で、私にできることがないだろうか。

そう考えて、まずは自分が子どもの頃から遭遇してきた虐待(未だに自分にこの言葉を当てはめるのは勇気がいるが)を振り返ることを始めたものの、想像以上のストレスに立ちすくんでいる始末。             さらに、読む人が有意義な情報にたどり着ける、わかりやすいサイトを立ち上げようと思ってみたものの、「そんなの二番煎じでしかない」「身の程知らず」「目立ちたいだけじゃないの」などという、自らの心の声に翻弄されている。

悶々とする日が続いている。ここに書き続けることで何か見えてくるかもしれないと、淡い期待を抱きつつ。

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