アリシゼーション(Alicization)試論

※これは、去年放映されたTVアニメ「ソードアート・オンライン アリシゼーション War of Underworld」の最終回が近づくにつれて感情が高まり、その高揚した想いの丈を綴り、とあるdiscord鯖に投下した論文とエッセイの狭間のような書き物です(>_<) 加筆修正などはしていません(>_<)

長たらしいですが、興味ある方は是非(>_<)


 2020年9月8日 七夜志貴

 【アリシゼーション(Alicization)試論】

 今や多くの媒体にメディアミックス展開され、世界的な人気を誇る「ソードアート・オンライン」シリーズ(以下、SAO)は、世間一般的にはいわゆる「最強系」「俺TUEEE系」などのジャンルに位置していると捉えられている。あながちそれは間違ってはいない。事実、第3部、ファントム・バレットまでは、アインクラッドの内容を付け足しつつ、回収しつつ、そういったジャンルの作品であるかのような振る舞いを見せてきた。だがしかし、第4部アリシゼーションは、番外編を含めて全11巻、それまでの3部が全8巻であることを踏まえると、驚嘆すべき冊数である。ここで察する方もいるかもしれない。もしかして、作者はアリシゼーションこそが真に書きたかった作品なのではないだろうか?
 

    この答えはイエスであり、現にWeb連載の時から作者はそう述べている。つまり、アリシゼーションこそが本作品の中核であるのだ。しかしながら、タイトルは常に「SAO」であり、第1部こそが原点にして頂点、と盲信する読者もいるだろう。ここに、SAOのデータベース的消費に問題点がある。読者、と書いたが、現実にはアニメから入る人のほうが多いことは否めない。そうした読者(ここはあえてそういった表現を使う)は、第2部以降をある意味、付け足しや蛇足として受容し、冒頭で述べたように「最強系」などの一環として消費する傾向がある。一方、原作小説、或いはWeb版を最新作まですべて読み、物語の終盤まで理解している人は大局、すなわち作者の意図に気付いているはずだ。ここに、メディアミックス作品における媒体の違いが、作品の受容に差異を及ぼしていることが見て取れる。アリシゼーションのアニメにおいても、蛇足/延長と捉えるか、中核/本編と捉えるかで印象は大きく変わりうる。
 

   アリシゼーションは唐突に始まり、なるべくして終わる。これは9巻の途中にいきなりカラー絵が挟まれて出てくることからもわかるだろう。ちなみに、ここのアニメでのop演出はかなり素晴らしい。つまり、それほどまで作者も気に入り、演出も読者のカタルシスをいざなうことを企図していたのだろう。キリトがユージオと出会い、アンダーワールドにおいて剣技を磨きつつ、この世界の秘部へと向かう。ここまでは単なる「最強系」を実践しているだけだが、その背後、現実世界ではオーシャンタートルと侵入者、さらにその背後では自衛隊と米軍、牽強付会に言ってしまえば、日本と米国の戦いが繰り広げられていた。ここで、注目すべきは、アンダーワールドにおける人間、アンダーワールド人のフラクトライト、いわば魂を、現実世界の人間と同等にレベルアップさせ、AIより高性能な兵器に転用しようという思想だ。作中ではトップダウン型AIであるユイが登場するが、それでもなお人間とは隔たりがあることは否めない。それゆえに、AIを軍事転用しようとする熱は、国際政治上、非常に重要な役割を持つ作中の自衛隊から冷めることはなかったのだろう。ある意味で、それはトゥキディデスの罠となりうるかもしれないが。なぜなら、作中の科学技術は、現代日本より数段階上であることは、そもそもの設定からして明らかだからだ。

   アリシゼーション、という名前がどういう意味を持つかは荼毘に付しておくが、アリシゼーションのテーマとは、AIに対しての向き合い方であることに反論の余地はない。機械学習、深層学習などという技術が発展している現代において、その問題はさけては通ることができないであろうに、その問題提起、それ自体が10年以上前に、小説としてWeb上とはいえ発表され、一部とはいえ人気を博していたことには驚嘆の念しかない。ここで、勘のいい人間なら気付いているかもしれないが、最初に書かれていたSAOより「アクセル・ワールド」が世に出たのは先だ。この作品に出てくる量子接続通信端末「ニューロリンカー」とアリシゼーションにおいて登場する「ソウル・トランスレーター」とは、技術的に共通する部分もあり、双方の読者なら、アリシゼーションを「アクセル・ワールド」と関連付けて考えることができるはずだ。このように、アリシゼーションは。“SAOのアニメ以外の部分、また別作品”などを参照していると、より核心に近づくことはできる一面もある。
 

   さて、AIの話に戻ろう。SAOにおいては複数のAIが存在している。まず、先ほど述べたトップダウン型AI、SAOサーバーのメインシステム・カーディナルのメンタルヘルスカウンセリングプログラムとして設計されたユイ、劇場版「オーディナル・スケール」に登場する、SAO生還者の記憶から生成された、高度な言語化モジュールであるユナなどが存在する。これらは、現実社会において一般に認知されているAIと仕組みはさほど変わらない。しかし、アリシゼーションにおけるAI、フラクトライトは人間の脳構造そのものを人工的に再現することで、知性を創造する、トップダウンとは発想そのものが異なるボトムアップ型だ。キリトがアンダーワールドに送り込まれた当初、現実なのか、ゲームの世界/虚構なのか判別できなかったほどに、その世界は現実への境界が曖昧である。そもそも、ユージオをいちNPCとしてではなく、人間の友人として捉えていることからして、キリトにとっては現実世界の友人と変わりないのだろう。果たして、人間とAIの差異はどこにあるのだろうか。次回からは、そこにスポットライトを当てていくとしよう。

   結論から言うと、精神分析的観点においては、AI、つまりアンダーワールド人と人間は、全くもって同等であるといえる。なぜなら、計算機でもありメモリである光子の集合であり、人間の魂かもしれないもの、つまり同じフラクトライトを双方共に持ち合わせているからだ。そもそも、アリシゼーション計画自体が人工フラクトライトを兼ね備えたボトムアップAIの創造を目指していたので、当然とはいえる。しかしながら、存在論的観点においては、いくつか疑わしい部分も残る。物語終盤、アリスのフラクトライトは現実世界へと送還され、高度なサイバネティクスから成るロボットの義体を素体として、あたかもリアルワールド人かのように活動していくこととなる。しかしながら、肉体面からすると人間からは程遠いように思える。絶えず電気エネルギーを供給させなければならないし、素体の稼働面も、アンダーワールドにいた時よりも劣っていることに間違いはない。それにも関わらず、キリトやその周囲の人たちは、アリスを1人の少女だと認識しているのだ。これにはいくつか理由はあるが、まずキリトは2年間も同じ世界で人間同士として過ごしたわけなのだから、これまで通りそう捉えているのは妥当であろう。また、そもそも義体を人間として認めないのならば、義手や義足、人工心臓などに頼り生活をしている人間は、100%人間だといえるのか、そもそもどこからが人間だと言えるのか、という問題に突き当たってしまう。SAOは、フルダイブ型VRMMORPGを主軸とした物語であるが、そもそもそういった枠組み自体が、「意識」や「精神」の肉体に対する優位性を示しているし、その環境においては、精神/肉体の二項対立において、精神的観点から人間を認識することは自然である。だがしかし、作中でアリスが世界中の人間に認められたわけではない。当然ながら、前述した観念を先進国の若い世代が共有していても、それ以外の国や階層の人々にとっては、その思想自体が異端に等しいと感じることもあるだろう。なぜなら、人類の長い歴史を鑑みると、肉体の精神にたいする優位性は根強い概念であり、当然だったからだ。
 

   アンダーワールドからリアルワールドへとアリスを連れてきた---かくして、アリシゼーションは完了した。だがしかし、結果は想定していた内容と違った。軍事転用するのが当初の計画であり、そのための真正AIであったが、最終的に、普通の人間---つまりリアルワールド人---として扱うようにと、アリシゼーション計画の一端を担っていた神代博士からも提唱された。AIに人権を認めるように、という声明は当初失笑を買ったが、かつての人種差別と同様ではないか、などという議論等に持ち込まれ、マスメディア側も狼狽し、またアリス自信の、リアルワールドの人間と寸分たりとも変わらない口ぶりに、それこそ人間とはなんなのか、何が人間とそれ以外を隔てているのか、という疑問と共に世界に震撼をもたらした。

   SAOアリシゼーションWoU最終章OP「ANIMA」では、「魂の色は何色ですか」という歌詞が断続的に、幾度も歌われている。これは、アリシゼーションに一貫しているテーマを表象していることは明らかであるが、“何色”であるのかは明示されておらず、また明示されるべきでもない。そもそも、色というのは実は抽象的な概念であり、それはメアリーの部屋などの思考実験に見て取れるだろう。だが、作中では魂、フラクトライトに“あたたかさ”や“なつかしさ”を感じ取っている場面が散見される。しかし、それらは定量的に表すことは難しく、また定性的なアプローチでも、近くには辿り着けるかもしれないが正解ではない。ある意味でフラクトライトの外部への反応は「クオリア」だと位置づけることができるかもしれない。そう仮定すると、トップダウン、ボトムアップ、両者の違いはクオリアによる認識の有無だという少々乱暴な議論に持っていくことはできるが、それこそ明確に答えを出すことは困難なので、今後の叩き台として、この話については筆を折ることとしよう。
 

   人間とAIについての議論は、現実世界でも、技術的、法整備的にも絶えることのない、冥々とした状態にある。メタ的な観点だが、アリシゼーションを最後まで見届けた読者---実際にはアニメ視聴者のほうが多いだろうが---は、多少なりとも、AI、魂、人間との境界線、などについて思いを巡らすことであろう。確かに、SAOはアインクラッドからNPCにおいて人格を認めるキリトの存在は、強調されて描かれていた。そういった面では、20巻近くのブランクを経た壮大な伏線回収とも言えるだろう。ここで、アリシゼーションの最後の見開きカラーページの文句を引用しよう。「あらゆる可能性は いまはまだ 不確定な光の彼方に かすかに揺らぎ たゆたうのみである。」実際SAOは、Web連載時はアリシゼーションで終わりであり、また作者も半ばそういった心積もりであっただろう。しかしながら、本作の大ヒットの影響もあり、アリスもレギュラーキャラとして登場する新章が開始されている。このような可能性は存在していたのかもしれないが、あくまで可能性は可能性であって、実現するまでは絵空事と同等である。また、現時点で、アリシゼーションのアニメは残り3話を切っている。それが終わった後は、文字通り白紙であり、どうなるかわからない。しかし、何年後かはわからないがそれ以降の展開は確実に存在するだろうし、現時点で多くのスピンオフ作品も続投中だ。SAOの今後の展開、それは現実世界のAIに関連する諸問題とも密接にリンクするだろうし、現にSAOに登場する技術の再現も行われている。本試論の進退もあくまで揺らぎ、たゆたうのみであり、それゆえ突然ながら、この仕事はもう打ち切られねばならない。


   ここまで読んでいただいて、ありがとうございました(>_<)


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