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生成系AIと「カメラの誕生」について

ここ数週間、AIによる画像の自動生成が話題になっている。DALL-E2やMidjourneyを触ったことのある人、触ってはいないが名前を聞いたことのある人、あるいは生成された画像を見たことがある人も多いだろう。

AIによる画像生成自体は新しい概念ではなく、5年以上前の第3次AIブームの走り、あるいはもっと以前から研究が進められていた分野である。ここへきて急に「社会現象化」したのは、一つはその精度がケタ違いに向上したこと、もう一つは誰もが(最低限の英語が読めれば)無料で触れる状態になったこと、が理由として挙げられる。

そして以下のような議論がふたたび交わされている。

「AIによってイラストレーターの仕事は奪われるのではないか?」
「AIが生成した画像の権利(著作権、所有権)はどうなるのか?」
「AIによって画像を生成することはクリエイティブな営みと言えるのか?」

これらは少なくとも人工知能界隈ではずっと繰り返されてきた問いであるが、現在のように生成系AIが大衆化された現在、改めて考え直す意味はあると思う。

そしてその補助線として、約150年前に世に放たれた、ひとつのイノベーションとなぞらえてみたい。すなわちタイトルどおり、カメラの誕生である。

カメラの誕生と生成系AIの共通点

カメラの定義をどこに置くか次第だが、感光材料を使った基本的な技術は19世紀前半には確立されていたらしい。当時はまだ長時間の露光と現像が必要で、限られた人々や状況でのみ撮影可能であった。

それまでは絵画という訓練と才能が必要であったところへ「特別なスキルに依存せず」「一切筆を動かすことなく」「精緻な風景画・肖像画が生成される」というのは衝撃的であったに違いない。その後、カメラの小型化・大衆化、インスタントカメラの登場、そしてデジタルカメラと段階を踏み、文字通りいつでも誰もが写真を撮影できるようになっていく。

この状況は現在の生成系AIにも近似する。進化と大衆化のスピードはカメラの比ではないが、高速化・高精度化・そして大衆化と進んできた道のりはよく似ている。今の状況を例えるならカメラが大衆化し、誰もがシャッターを切るのに夢中になっただろう1950年~70年ころだろうか。今後、生成系AIも、解像度や精度のさらなる向上、カスタマイズ性や使い勝手の強化など改善が進むに違いない。

歴史だけでなく、その生成プロセスもよく似ている。

さきほど「一切筆を動かすことなく」と書いたが、カメラの撮影にも相応のテクニックが必要だ。機材を選び、構図を決め、露出とシャッタースピードを調節し、撮影する。撮影後にはトリミングや現像をし、意図した写真に近づける。

生成系AIも、少なくとも現在のところは、「まったく新しい画像をゼロから生成する」というよりは「製作者のイメージを具現化する」に近いプロセスといえる。試しに「いまだかつて誰も見たことのない画像(An image no one has ever seen before.)」というクエリでMidjourneyをまわしてみたが、いずれもどこかで見たようなものの継ぎはぎであった。

An image no one has ever seen before.

生成系AIを操作するプロセスは写真の撮影にそっくりである。

AIが(カメラと同様に)全くの無から何かを描写するわけではない以上、製作者は、粒度はともかく、あらかじめ脳内でイメージを練っておく必要がある。そして生成する対象を決め(=カメラを向け)、クエリを選定し(=必要な設定をする。ここにも現時点で相当な知識とテクニックが必要で、それを売り買いするサービスまであると聞く)、詠唱する(=シャッターを押す)。生成された画像からバリエーションをつくり、高解像度化する(=現像)。ただその対象が、写真の場合は外の世界であり、生成系AIの場合は製作者自身のイメージであるという違いでしかない。

写真が「外の世界を写像する技術」だとしたら、生成系AIは「製作者の脳内を写像する技術」と言えるのかもしれない。いうなれば、生成系AIは「製作者の脳内を撮影するカメラ」なのだ。

論点① AIによってイラストレーターの仕事は奪われるのか

AIによって仕事が奪われる、というのは第3次AIブームの初めから盛んに議論(あるいはメディアにより扇動)されてきたテーマである。生成系AIの隆盛により、イラストレーターに絞られて現実的になってきたといえる。

相似形である歴史に立ち戻る。カメラが登場してから、画家の仕事は奪われたのか?

答えはYesでありNoである。

カメラの登場以前は、肖像にしろ風景にしろ、何かを記録しようと思ったら画家の力が必要であった。各地の美術アカデミーに所属し王家や貴族に尽くす有力画家から市井の職業画家まで、多種多様なニーズとそれに対応する画家たちがいた。

写真の撮影は確かに、そこから徐々に仕事を奪っていっただろう。単純な肖像や風景の描写はカメラの仕事となり、おそらく多くの職業画家たちはキャリアを捨てることになったに違いない(だがゼロになったわけではない)。実際当時のアカデミーの重鎮まで務めた画家ドミニク・アングルはフランス政府に対して「写真の禁止」を申し入れている。

しかしその裏側で写真の登場は、二つのムーブメントを生み出した。ひとつは抽象絵画への動きであり、もう一つは写真という芸術ジャンル、写真家という職業である。

1800年代中盤にカメラは最初の普及期に入るが、画家たちは指をくわえてみていただけではなかった。むしろカメラをひとつのライバルとみなし、創造性を別次元まで高めていった。

同時期に誕生した印象派に端を欲する「客観的なリアリズムではなく、自分が見た(感じた)通りに描く」という考えの背景には、「客観的」の権化である写真の普及があったに違いない。そしてカメラがどんどん一般化していくのに呼応して絵画は「主観的」を突き詰め、「現実世界とは全く異なるが、感じた通りに描く」というスタンスが加速していく。

20世紀に入るとマティスが夫人の顔を緑色で描き(1905年「緑の筋のあるマティス夫人の肖像」)、2年後にピカソはアフリカの美術に触発され人の顔や体をねじって描いた(1907年「アヴィニョンの娘たち」)。そしてキュビスムを経て純粋抽象へと至るわけだが、突き動かした原動力のひとつは「単に見たまま描くだけでは写真と同じだ」という感覚だったことは推察できる。

アンリ・マティス「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」1905

そしてもう一つは写真家の登場、言い換えれば「撮影というスキルの専門化」である。カメラは確かにシャッターさえ切れば何かしらが写るが、そこに意味や文脈、人の心をゆさぶる表現があるかは別の問題である。ピクトリアリスム、ストレートフォトグラフィ、絵画を一つのベンチマークにしながら写真は芸術として発達していった。構図や露出に対するさまざまなノウハウが生まれ、機材も多様化し、「表現としての写真」という新しい芸術体系が生まれていった。

これらの流れを生成系AIに当てはめるとどうなるだろうか。

仕事を奪うか?という問いに関して、生成系AIにより代替されていく仕事は、生成系AIの今後の発展を踏まえると確実に存在するだろう。単純な背景の描写、挿絵、イメージ画像などは容易に生成できるようになっていく。ストックフォト市場も縮小するかもしれない。静止画が動画になるのも時間の問題だろう。

一方で生まれる二つの新しい流れは、「人間にしかつくれないタイプの画像(≒抽象絵画)」「AIによる生成スキルの専門化(≒芸術写真)」といえる。前者は現状でAIが描きにくい、いわゆる「味わい・クセ」のあるタイプのイラストや画像を指すだろう。後者はさまざまなAIを組み合わせ使いこなしながら、今までと違った芸術ジャンルとしての「AIアート」といえる(そしてこれはすでにジャンルとして成立しつつある)。

カメラと生成系AIが一つだけ異なるのは、AIが人間を追随するスピードが凄まじく早いということだ。

写真はその性質上、現実的にありえない構図や空想の対象を描くことが絶対にできない。したがってキュビスムや純粋抽象は、カメラには到達しえない表現形式と言える。

それに対して、AIは仮に今この瞬間「人間にしか描けない」画像であっても、それがデータ化されればすぐに学習し、追随して生成できてしまう。

人間が常に新しい表現を探り、AIが追随するという果てなきいたちごっこになるのか、あるいはAIには絶対に再現できない形式(ライブペインティングなどのプロセスを包含した芸術か、あるいはほかの何か……)が発展するのか。いずれにせよ簡単には予測できない未来がくるだろう。

論点② AIが生成した画像の著作権について

この問題については、少し前、生成系AIが市場に登場したころから一定の法的解釈が与えられている。すなわちAIを道具とし、あくまでそれを操作した人間が生成された画像等の著作権をもつというものである。

今年の6月に開催された人工知能学会で生成系AIと著作権について、さまざまな立場のパネリストがディスカッションしており非常に興味深かった。私は京都で臨席していたが、研究者の皆様が「AIにも著作権が与えられる、研究者の立場としてはそんな世の中になったらいい」という趣旨の発言していたのをわくわくしながら聞いていた。

しかし、少なくとも生成系AIをカメラになぞらえて言うのであれば、そのスタンスは現時点では難しい。当然ながら撮影した写真の著作権はカメラにも、カメラメーカーにも帰属しない。それが機械である以上、操作という意図を加えた人間が創作者ということになる。

「ボタンをぽちっと押すだけで生成された画像の著作権は、ボタンを押しただけの人に寄与されるのか?」という問いかけもネット上で見かけたが、これも当然ながらその人に寄与されると考えられる。私が町中で何気なくスマホのカメラのシャッターを(時には意図せず誤操作で)切ったとしても、撮影された画像はスマホではなく私の創作物に違いない。そしてそれが芸術作品として評価される可能性も、ゼロとは言えないのだ。

論点③ AIによる画像生成はクリエイティブな営みと言えるのか?

いままでの議論でもうすでにこの点はクリアになっている。すなわち、それは150年前にさかのぼって「カメラによる撮影はクリエイティブな営みと言えるのか?」と問いかけることに等しい。

もちろん答えは「圧倒的にクリエイティブ」である。150年前にどう考えられていたかはともかく、現代の基準ではクリエイティビティそのものだろう。現代の写真家や愛好家に、「単にカメラのシャッターを押すだけの行為はクリエイティブと言えるのか?」と問いかけるのは危険きわまりない。

ただ、そのクリエイティブの度合い、あるいは尺度というのは今後人類の表現の積み重ねの中で設立されていくものだろう。仮に風景画の名画と同じモチーフ、同じ構図で写真を撮ったとて優れた作品とは言えないのと同様、すぐれたクリエイティビティを持つイラストをAIで再現したとて、それがクリエイティブかどうかは別の次元の話となる。写真には写真のクリエイティビティがあり、生成系AIには生成系AIのクリエイティビティがどこかにあるはずだ。

今はまだ既存のイラストの評価軸を用いてAIによる生成画像が評価される(「神絵」等)ことが多いように思うが、独自の鑑賞方法や評価の視点ができてくる。写真がこの150年で歩んだ道と同じように、一つの芸術ジャンルになる可能性を秘めている。

いずれAI生成専門の評論家があらわれ、いずれ美術館ができ、いずれ専門の学校ができるかもしれない。それは一鑑賞者として、とてもわくわくする未来だ。

まとめ

見てきたように、生成系AIの近年の状況はカメラの登場と非常によく似ている。「人間の脳内を撮影するカメラ」として、人間の想像力と呼応しながら、新しいジャンルの創作物を生み出していくと予感している。楽しみしかない(もちろんそうならない可能性もある)。

蛇足ながら付け加えると、カメラの登場はもう一つ大きなインパクトをもたらした。それはカメラというデバイスの市場である。

表現としての写真の発達は、道具としてのカメラの進化と並走している。生成系AIも同様に、一つの道具のジャンルとして、アルゴリズムや使い勝手の進化をもって新しい表現の地平をひらいていくに違いない。

偶然にも、カメラというデバイスの市場は、コア技術は欧米(乾板…フランス、フィルム…アメリカ、35㎜…ドイツ、デジカメ…アメリカ)生まれであるにもかかわらず、日本企業が大きくリードしてきたジャンルの一つである。スマートフォンの進化でお株を奪われつつあるものの、ハードウェアとソフトウェアを融合させ、良い意味で「変態的な」こだわりは日本企業の競争力となった。生成系AIも、アルゴリズムそのものだけでなく、使い勝手や細かいチューニングに「変態的な」こだわりを発揮することができれば、日本の大きなアドバンテージになるかもしれない。

そして私自身も、広告業界という一応表現にかかわる界隈のはしくれとして、新しい取り組みを続けていきたいと思う次第。

※トップ画像はMidjourneyによって生成した「心の中を映すカメラ(A camera that capture the inside of the mind)」


注1:上記は主に画像生成系AIについて語っているが、文章や音楽などでも同じ構図になると考えている

注2:私は美術やカメラの歴史の専門化ではないため、細部の認識に怪しいところがあるかもしれません。誤りがあればご指摘ください……!

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