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ひとり、ふたり、いろんなかたち

誰かと共に生きること、寄り添うこと、思いやること、について、考える最近です。
前に書いた記事に「呼び方の話」があったと思うのだけど、その違和とも繋がる気がする。

仲間とか友情とか恋愛とか好きとか嫌いとか、そういうのって代表作は存在しなくて、ただの(仮)に過ぎない。

「はい、こういうのって"友達"だよね」
「うん、これは"恋愛"でしょ」

とか、なんかそんな感じで生き進められているのかな。そういうのに惑わされる自分が嫌だ!ってことで今回の記事を書き進めているのだけど(「恋愛経験ないです」とか言っちゃってるからさ)、一般的に括られてしまう部類にはなんだか全てしっくりこない。

その括りじゃなくない?といつも思う。「なんか違う、なんか違う……」の繰り返し。で、結局自分は矛盾しているから「じゃあ今のこれって何?」と答えを求めてしまう。あはは、疲れてしまうよね。

人間関係という大きな括りにはなるんだろうけど、その中で相手とどう向き合うかで、いろんなかたちになれるんだと思う。

相手に対してどう責任を持つか。

職場に関していうと、仕事内容についてどうフォローするべきなのかとか、同僚のプライベートにどこまで踏み込むべきなのかとか。パワハラとかいう言葉があるけどそんな適当な言葉で片付けないで、相手との信頼関係を築く上で自分が大切にしたいこと、相手が大切にしていること、その両方に責任を持つべきだと思う。ちゃんと伝えて、受け取って、返して。それをしていれば、そこまで大きな問題にならないんじゃないかな。

というと人間関係の全てにおいてそうなのだけど、コミュニケーションは大事だなって話なのだけど、世間的に言われる"友情"とか"恋愛"とか"家族"とかの何が違うかは、会話の内容とか、どこまで曝け出しているのかとか、一緒に過ごす時間の密度とか、共有部分とかで変わってくるのかな。

私の母が私の母であることは事実だし、カルダモンが私の飼い猫であることは事実なんだけど、母は母で一人の人間で、カルダモンはカルダモンで一匹の猫で。それぞれが独立していて、その中でお互い責任ある関係性を築き、成立しているんだよね。

だから「君のことが好き」という言葉よりも、具体的に今、どう一緒に過ごすかという提案のほうが大切だと気付いた。

「カルダモンが好き」じゃあどうする?
→一緒にいる時間を増やす
→移動時間を短縮しておうち時間を確保
→行動範囲を考えて引っ越す
とか、そういう具体案が必要。

それが必要なんだと、そういう責任ある生活を大切にしたいんだと、うん。思います。
だからもし大切な人がいたらお互いしっかり話し合ってよりよい生活スタイルを見つけるべきだし、長く会えていない人に寄り添いたい時は必要としてもらえた時に話を聞ける相手でいたい。

一緒にいられる時間には限りがある。話せるタイミングだって多くはない。せっかく、今 という時間を、時代を共に生きて、しかも出会えてて思い合えているのだから、一瞬たりとも無駄にしたくない。人間というイキモノに興味がありすぎて暑苦しくてしつこくて面倒臭いかもしれないけど、私はそういうイキモノなんだと思います。好きになったら好きなんです。好きって気持ちはなくなりません。やっぱり好きは好きなんです。じゃあ、どうする?