見出し画像

"声にするということ"

新国立劇場 小劇場で上演中の『ロビー・ヒーロー』を観た。これは、シリーズ「声 議論, 正論, 極論, 批判, 対話...の物語」の二作目で、一作目の『アンチポデス』も四月に観ている。もちろん三作目の『貴婦人の来訪』も観る予定なのだけどその前に、身体中に溜まった毒素を取り除かなければシリーズが終わる頃に私自身も終わる気がして、今こうして言葉にしている。

私はなんでもかんでも話してしまう癖があって隠し事がない。言った方が知ってもらえるから、良いことも悪いことも言ってしまえ!と思ってオープンにしている。だけどそれは時に人を傷つけるし負に落とすことにもなるから、気をつけたほうがいいということを今更学んだ。私の言葉のせいで傷ついた人はたくさんいると思う。ごめんなさいと言いたいけれどそれすら煩わしく思われるかもしれない。なんて難しい世の中なんだ。人生を巻き戻して関わってくれた人全員に謝ってまわりたいくらいなのに。そして、できることなら私という人間を忘れて去ってしまってほしいとさえ思う。

気にしいではある。こう言ったらどう思われるだろう、あれ言ったら嫌われるかな。常にそんなことを考えながらも矛盾して言葉を綴り続ける。言葉は声にした瞬間別物に変身する。私の言葉だったそれらは放たれた途端に誰かが受け取る言葉として存在することになり、全く意味の違うモノとして生き続ける。そうじゃないのに、そういうことじゃないのに。でも今更訂正してもあの時はそれが全てだったのだから仕方ないのかな。でも本当は違うんだ。本当って何?何を伝えたかったんだ?私の本当はどこにあるんだろう。……そんな毎日である。

なんでも声に出してしまうことはつまり、わがままなんだと思う。相手のことを何も考えていないのかもしれない。人間が好きとか言っておいて本質はそこに無いのかもしれない。なにもかもがわからない。
また人と接することが怖くなってしまった。自分の存在がきっと誰かを傷つける。悲しくさせる。苦しめる。

私は私のために生きているけれど、私はあなたのために生きたい。尽くしたい。守りたい。大切にしたい。愛していたい。一緒に生きたい。生き続けたい。永遠を信じたい。愛されていたい。言葉を交わしたい。心を知りたい。全部知りたい。ほら、わがままだ。自分のことしか考えていないじゃないか。

出会った瞬間が最高純度の愛なんだ。だからね、その時点から先に進んで関係が深くなったとしても初めましての愛はもうそこにはなくて、思い出せないほどに黒色に支配されていて、だから、全然、自信がないんだ。人と関係を進める自信がない。きっと嫌われていく一方だから。きっとあなたの心を暗闇に誘い出してしまう。私があなたを愛していても意味がない。あなたに愛してもらえないなら意味がない。でも愛している。愛してる。

母に「舞台を観たら落ち込んでしまって暴食した」と報告した。私は嫌なことがあるとたっっっくさん食べてしまう。そういう時は必ず母に報告している。罪の共有をなすりつけている。報告したのは、帰りのコンビニでお菓子を三袋買ってペロリと食べ終えた後のことだった。落ち込んだ理由を聞かれ「主人公が自分に似ていて嫌になった」と答えた。母は「良いところも見たはず、自分を少し変えようと思ったりした?」と言うもんだからドキッとした。全然変えようとも変わりたいとも思っていない自分がいたからだ。私は紛れもなく私なのだ。私でしかないんだ。私でしか生きられないんだ。生きたくないんだ。
もうどうしようもないね。嫌われたって仕方がないし、愛されないことにも理由がある。

私は帰宅してすぐにカルダモンを抱きしめた。カルダモンはいつだってごろごろすりすり甘えてきてくれる。動物という存在に日々救われている。声に多少の変化はあるものの言葉を持たない存在に、救われている。