こんなんなんぼあってもいいですからね
ボランティアや寄付をしようというとき、つい厳選したくなるというか、厳選しなくていいのかしらと思ってしまう。
その必要もないのに妥当さを探す
履くものがなくて足をケガして感染症になっても薬もない、そんな開発途上国の子どもたちのために古い靴を送りましょうっていうけど、その前にお金を送るべきではないのかとか。お金を送るなら多額じゃないと意味ないんじゃないかとか。お金を送る先は開発途上国の子どもたちでいいのか、トー横やグリ下や日本のあちこちで困窮している子どもや女性に送りたい気もするとか。ああでもないこうでもないってらちが明かない。
こういう感覚の人、結構いそうな気がする。
伊坂幸太郎の「砂漠」で西嶋が保健所に入れられたシェパードを引き取って飼い始めたとき、北村は西嶋に「そういう突発的なことをやって、どうやって納得してるんだい」と問いかけ、西嶋は「たまたまですよ、今回は見ちゃったからね、気になったんですよ。次からはもうあのホームページは覗かないことにしたし」と言ってのける。あのホームページって保健所の収容犬一覧ページのことだ。
西嶋に倣うわけじゃないけど、冒頭の「厳選しなくていいのか問題」は、まあでも思いついたはしからやっちゃってもいいのか、とわたしは思い直すことにしている。
助けが必要な人は山ほどいて、どうせわたしにできることなんか少ない。わたしはたまたま縁があったところに、みんなもそれぞれ巡り合ったところに。そうすると副次効果として、わたしたちが多様でお互い似ていないことを尊いことに思えるのかもしれないではないか。
「ハッタ」とはベンガル語で「歩く」
それで5月27日まで2週間、チャリティー・ウォークの企画に参加していた。NPO法人のESAアジア教育支援の会さんが主催する「てくてくハッタ」というリモートのウォーキングイベントだ。
わたしの美容師さんが以前、この会の別のプログラムを教えてくれて、ちょこっと寄付をして以来、ESAさんからはDMをもらうようになっている。
参加手順は簡単だ。参加費1000円を支払った上で、期間中はそれぞれが自分の生活の中で、意識的に歩くようにする。それをスマホの歩数計アプリで記録する。それだけ。
いちおう、みんなで何万歩だとか目標も掲げてあるけど、達成してすごくいいことが起きるわけじゃない(そのかわり、未達でも悪いことは起きない)。
雨の日は赤が明るい
リモートだし、他の参加者に会うこともないので参加意識は希薄だけど気楽だ。仕事の帰りとかトレーニングの行き帰りとか、バスや電車の代わりに徒歩を選択したりして、歩きだから見つけられた景色もあった。
自然災害や紛争など、直近で何かトリガーがあるわけではなく、“ずっと”“まだまだ”支援が必要な地域・人に対する寄付を募るのって難しいだろうなと思うので、そこにほんのちょっとでも寄付できてよかったと思う。
もっとも、トルコやウクライナに寄付したときは、今まさに喫緊に必要なところに支援できてよかったなと思った。そのときそのとき都合よく意味づけては「よかった」「よかった」言ってて平和でよかった。
チョポティ、フチカ、ジャルムリ
もうひとつよかったことがあって、それはESAさんが支援先の子どもたちの動画を配信してくれたことだ。2分ぐらいの短い動画。
これがよくて3回続けて見た。バングラデシュ・チャーラキア村の子どもたちは朝、学校へ行く前に家畜(黒ヤギかな)の世話をして、お母さんは地面に掘ったかまどでチャイの準備をしている。わたしも朝は仕事を始める前にパキラやガジュマルたちに水をやって、同居の姉が淹れてくれるバカ濃いコーヒーを飲む。今日も飲んだ。
なんか結構“いっしょ”だなと思った。東京のマンションで快適に過ごしながらそんなこと思うのは傲慢かもしれないけど、事実そう思ったからしょうがない。
動画の後半では、子どもたちに好きな屋台の食べ物を聞いていた(いい質問だ)。子どもたちは「チョポティ」「フチカ」「ジャルムリ」とかって答えていて、それらはしょっぱい系のスナックらしかった(アイスクリームの子もいたけど)。わたしもしょっぱい系スナックが好きだ。お気に入りは岩塚製菓さんの「バンザイ山椒」だ。
共通点が見つかったからというわけじゃないけど、チャーラキア村の人たちにはまた、自分できっかけを作って寄付やなんかしてみようかと思っている。バンザイ山椒をネット注文したら、購入金額と同額かもうちょっと寄付するっていうのをさっき閃いて、わたし天才だなと思ったところだ。
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