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3月の仙台は人人人

仕事で仙台に行くことになり、後泊が許されたので、ちょっとのんびりしてきた。正確には、のんびりしようとした。東京から行ったわたしたちでも驚く人出で、そうのんびりとはできなかったのだ。でも、楽しかった。仙台は人生で2度目だけど、地元の人もひょっとすると知らないかもしれない名所・名店を見つけてしまった気がする。隣町の多賀城のスポットも含めて(長文を読みたくない人は見出しがそのまま、おすすめスポットなのでご参考までに)。


おでんと酒 つみれや

仕事を終えて仙台駅まで戻ると18時過ぎだった。駅直結のホテルを取っていたので、まずはチェックインを試みる。しかし、仙台駅の構内は複雑だ。人混みのせいでサイン類をじっくり見られないのもあってやや迷った。ミスドに行列ができていた。編集さんがいなかったら、さらに20分ぐらい迷ったかもしれない。なんとかホテルにたどり着き、チェックインは無人機で済ませた。荷物を置きに行くわたしに付き合ってくれた編集さんが部屋を見てひとこと「モダンですね」と言った。

街へ出るとすっかり夕飯どきで、どこも大混雑だった。特に牛タン屋さんは軒並み、店の前に行列ができている。18時半なのに「今からお並びいただいて、20時15分頃のご案内です」と言っていた。わたしたちは牛の舌を焼いて食べることを早々にあきらめ、“仙台に来た甲斐をわずかでも感じられる店で何か食べたい”に願いを格下げして街をさまよい歩いた。「満席です」「ご予約でいっぱいです」と断られ続け、もう五右衛門でもいいか五右衛門おいしいし、という考えが頭をよぎり始めた頃に、時間貸駐車場の脇に灯りを見つけた。電球色の、何か雰囲気のある灯り。もはや文字は目に入らない。でもきっと食べ物屋だ。

駐車場の片隅にあるように見える(お店の公式サイト

「ここにしましょう!」とわたしは宣言し、編集さんの「え、ここってお店ですか?」と当惑する声を背に、横開きの戸をあらよっと開けた。中は出汁の匂いがしていて、わたしはたぶん泣きそうな顔で「予約してないんですけど、2人なんですけど」とおずおず言った。着席が許されたとき、「ありがとうございますありがとうございます」と息継ぎなしに2回言ったと思う。5、6時間ほぼ屋外で仕事をした後で、おなかが減っていて、よく知らない街をあてもなく歩いて、おなかが減っていた。

このお店がまあ、大当たりだった。宮城をはじめ東北の地酒があるし、ジンジャーハイボールはジンジャーエールが自家製だそうで薄くスライスした生姜が何片も入っていた。おでんのお店で、邪道と言われそうだけどわたしは愛しているじゃがいもがメニューにあったのも感激だった。と言いながら、じゃがいもではなくじゃがバターを頼んでしまったけど、これがもう泣けるおいしさ。刺身も日替わりでちょっとだけ食べられるようになっていて、この日はしめ鯖で、脂が乗っていてまろやかだった。席も一番奥の秘密基地のようなところへ通してもらえて、飲食店的にもしかしたら良席ではないのかもしれないけど、疲れ切ったわたしたちにはほっとできる最高の場所だった。

編集さんとわたしは、何度か仕事をご一緒しているものの、お茶さえ飲んだことはなかったけど、お互いに仕事のしやすい“助かる”相手だという認識だったので、どこまでも穏やかにお酒が飲めた。出張の後泊をする二人なので、国内旅行が好きという共通点もあって、次はどこへ行きたいだとか、話題に事欠かなかった。

旅慣れた編集さんがひょいと「淡路島にも興味があります」と言ったときは、目から鱗が落ちる心地がした。一周まわった心地というか。特定の企業と強く結びついた開発が、なんとはなし、ちょっと嫌だとわたしは感じていたけど、手つかずの自然の中へ乗り込んでいくのでもなければ、どこの街もどこかしらの会社が自治体と一緒に投資をして街づくりをしているのだ。

仙台といえば伊坂幸太郎。仙台駅のデッキは、伊坂原作、今泉力哉監督の『アイネクライネナハトムジーク』を思い出す

ドンク エディテ JR多賀城駅店

翌日は単独行動。キリンビール仙台工場の見学を予約してあったので、無料送迎バスの出る多賀城駅まで仙石線に乗る。仙台駅のホームがまた結構混んでいた。それでも電車は駅に停車するたび少しずつ人を降ろして静かになっていった。

多賀城駅で降りて、バスが来るまで時間があったので、蔦屋書店 多賀城市立図書館に立ち寄った後、駅直結のパン屋さんで惣菜パンと牛乳の朝ごはん。感じのいい店員さんがパンを「温めましょうか」と向こうから聞いてくれて、温めたパンを席まで持ってきてくれて、おまけにイタリアの伝統菓子だという「コロンバ」を試食させてくれた。働き手と接客の仕事の需給バランスからいって、日本ではもう店員の誰も、客に親切にしなくてもおかしくない気がしているので、親切がすごく身にしみた。

キリンビール 仙台工場

ビール工場の見学は、ヤッホーブルーイング(佐久醸造所)以来だ。ヤッホーと違ってキリンは、工場のまさに製造している作業場には立ち入らず、そういうところはガラスごしに見学するツアーなのだけど、その隔たりや遠さを感じさせない工夫があった。

無料の送迎バス

麦芽を試食したり、ホップの香りをかいだり、麦汁を飲んだり、貯蔵庫と同じ温度を保ったパネルがあってそれを触ってみることができたり、酵母に麦汁の中の糖質を与えるというビデオゲーム風の演出があったり、缶を締めるマシンが動くところを目の前で見せてもらったり。“見る”一辺倒でなく、いろいろと体験ができるようになっている。

訪れる人を喜ばせるデザインがあちこちに
見学料500円でビールの試飲にお土産の缶ビール(発売前の新製品)に500円オフ電子クーポンまでつく(仙台工場の公式サイト

ツアーガイド役を務めるスタッフさんも立派だった。資料に目を落とすこともなく、にこやかで、よく通る声で、ちょうどいい情報量のアナウンスをしてくれる。どこかから派遣されてきた人なのかと思ったけど、社員さんだという。それも、およそ工場見学を担当しそうにない畑で取れた人だった。すごい会社だなと思って、ちょっと悔しいような感じだ※。

これもガラスごしの撮影。動画撮影は禁止だけど写真撮影はOK

(※ここで、同社が先月、炎上した広告を取り下げた件で嫌味を書きたい気持ちになったけど、たったいま例の彼のXを見に行って、その気が失せた。この人は傷ついているのではないかと思った。「傷ついている」と書いてはいないし、傷ついていることを匂わせようともしていないけど、なんとなく。少なくとも、広告のギャラとは別にきっと贈られたであろうビールたちを、彼はもう飲めないのではないか。あの発言は到底、容認できないけど、発言した彼のことは、わたしはもういいと思った。別にわたしなど偉そうに人を裁く立場にないけど、ネットリンチに加担するかしないか選ぶことになる一人のSNSユーザーとして。そしてわたしは今回も「しない」を選ぶ。わたしの正義にもとるどんな誰が現れたときでも、この次もまた次も、そうしたいと今は思えている。)

工場見学の最後は「一番搾り」の試飲。社内資格を持つ注ぎ手が専用グラスにクリーミーな泡を作ってくれる。「一番搾り<黒生>」や東北産の第一等品ホップを使う贈答用の「一番搾りプレミアム」との飲み比べも。このとき、この一日で初めて、一人で来て寂しいなと思った。「おいしいね」と人に言いたくなったせいだ。

apetera アペテラ

多賀城までバスで送ってもらい、仙台まで帰って、もう一つ仙台で絶対にやりたかったことを果たす。仙台パルコに入っている北欧雑貨のお店を訪ねることだ。

2年ぐらい前、都内の百貨店で催していた北欧展でお土産をいろいろ買ったら、その中のティーバッグがやたらおいしかったので、以来、ネット通販で同じものを買い続けるようになった。「forsman TEA」というフィンランドの紅茶ブランドの「抹茶バニラ」。

ここで仙台パルコのお店につながるのだけど、forsman TEAが箱買いできるのは日本でこのお店だけなのだ。ネットで探してみてそうと分かり、それから通販で何度もお世話になってきた。家具も扱うこのお店にとって、お茶しか買わないわたしは決して上客じゃないと思うけど、お店の方は注文受付や発送の連絡の際に、東京でのイベントの予定など書き添えてくれたり、すてきなポストカードを封入してくれたりして、最初からずっと温かかった。それで一度、お店を訪ねてお茶以外の買い物も楽しんでみたいと思っていたのだ。

日本でここにしかないものがここにあることを知っている人は実は少ないんだろうなと思って、いい気になる

お店は仙台パルコの地下1階にあり、しかしショッピングモールのテナントだとは思えない雰囲気を醸し出している。北欧の有名ブランドの食器やファブリックも魅力的だけど、作家さんが一つひとつ手作りしているものや、古い絵本なども置いてあり、蚤の市みたいな一角があったりして、わくわくする。いい感じの混沌がパルコのB1にそっと広がっている。

通販でやりとりしていたお店の方にご挨拶もできた。forsman TEAの国内独占(?)販売事情や、この日と前日の仙台激混み事情など、お話しくださった。その方が教えてくださったところによると、駅西口に「tekute dining」という飲食店ゾーンが数日前にオープンしたのが、混雑の一因であるらしい。ミスドに行列ができていた理由はついに分からなかった。

楽しくお買い物できた(お店の公式サイト

仙台駅で帰りのはやぶさを待っていたとき、1本前のに若い誰かが乗って、そのドアに向かってホームのみんなが手を振っていた。10人はいたと思う。令和なので涙、涙でもなかったけど、60歳ぐらいの男性が一人、迷いながら1回、2回、バンザイしていた。他の人は続かなくて、やっぱり令和の3月だった。

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