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人事部が自社の組織課題を社外にオープンにしてしまう価値は何か

いま働いている会社の人事部のブログで、失敗した話とか、いろいろ書いている。人事部長引き継ぎに失敗したとか。採用でいろいろ失敗したとか。年収交渉代理人という制度をやってみたとか。

採用の失敗とか引き継ぎの失敗とかは、他社でも起きていることだろう。この課題は特にユニークなものでもないし、「あるある」だ。しかも、解決策も思いついてないまま出したりする。他社だとあまり公開されないし、公開しない理由もなんとなくわかる。でもここはあえて「もっと組織課題を赤裸々に公開した方が意味があるよ!」という話を書いてみたい。

外部ネットワークが獲得できるという価値がある

私がなにかあったらすぐに相談する神谷さんに「自社の組織課題をオープンにすることには価値がありそうだけど、どうでしょう。公開して他者からのフィードバックをもらうことで学びが増えるとか。」と聞いてみた。以下答え。

はい、強みになりますし、価値になりますね。それをやれば、組織学習は促進されるでしょう。それよりも、大きい価値は外部のネットワークが獲得できるということ。アライアンスを組みやすくなる。ビジネスの協業や、人材の交流が生まれ、短期でも長期でも経済効率があがる。社員にとっても学習メリットや報酬面での効果はありそう。やるべきでしょうね。どこと繋がるかは大事だけど。

確かに、ブログに書くことで、それをきっかけに会う人が増えた。基本的には、twitterとかでブログを引用してくれた人がいたら見に行ったりして、なんか内容を見て面白そうならいきなり「話しませんか?」と声をかける感じだ。あとは、別件であったときに「ブログ読んでます」というパターンも結構ある。そういうときも話が早くなる。だから経験上のこのメリットはわかる。でも、なぜ外部ネットワークが獲得できるのかをもうちょっと考えてみる。

まず、twitterとかで書いた記事を引用している時点で、同じような興味関心があることがわかる。そして、相手の日々のツイートを見ると+αで興味関心がわかり、互いに「あーだこーだ話すことで、視点が交換できる」かどうか、のイメージがわく。声をかけた相手からも「この人と話すのは意味がありそうかも」と思ってもらえたら、あとは話すだけだ。最近はオンラインでも気軽に話せるし。そう考えると普通の話だな。シンプルに興味関心が似ている相手を探すきっかけとして「自社の組織課題を公開する」というのがあるだけだ。

私の場合は、解決策よりも「どうしていいかわかんねーなー。あーでもないし、こーでもないし」と途中の経緯を長ったらしく書くのが好きで、そういう記事になってしまう。これは、私が逆の立場だったら、そこの試行錯誤の感じを読みたいと思うからだ。だから解決策ない場合も多いし、解決策や答えを求める人には意味がない記事になってしまっている。だからこそ、そんな記事を引用している人は「あーだこーだ」考えるのが好きな人になるから、外部ネットワークを増やすのに都合がよいのかな。

だいたいの会社は風通しの良さを売りにしているはずだ。自社の組織課題を公開できないことに対して、もっと向き合った方がいいのでは、と思った。

組織課題を外部公開するときに、「社内の人に読まれたら、誰のことかわかってしまう」とかそういう理由で、「出せないのが普通」ということになってしまっているだろう。それはもうその通りだ。私も全部出してない。大丈夫そうな人しか名前を出さない。

ただ、本来あるべき姿として「本当はもっと赤裸々に出せる方がよい」という基準を持っておくかどうか、はありそうだ。競合に負けてしまうような機密情報とセットだから出さない方がよい、ならわかるけど、社内の人間関係を気にして出せないというのは、「よくない状況だ」と認識しておくかどうか。どうなんだろう、もうちょっと何か考える。

心理的安全性の記事でも書いたけど、「意味のある対立が生まれやすくしておく」のは、組織として学習をすすめるためにはやったほうがいい、みたいなこととつながってそうだ。引用しておこう。

チーム学習の促進は、上の項目の「意味のある対立が生まれやすくなる」というフレーズをみてイメージがわいた。失敗に対しての批判への恐れがない、自分が恥をかかないかを気にしていない状況においては、各自が「自分にとって正しいと判断すること」をやろうとする。
しかしポイントは、それぞれのメンバーの見解が異なることだ。見解が異なれば「なぜ違うのだろう」という形でチーム学習が進むのはイメージがわく。見解が異なることを面白がるよりは、対立を恐れる方向にいって、学習が進まない方向にいっているケースも見てきた。ここまできてやっと「心理的安全」というフレーズからうける印象と、「チーム学習」が自分の中で結びついてきた感じだ。
別のときに神谷さんに教えてもらったことを思い出した。「人間関係に関するコンフリクト」と「仕事内容に関するコンフリクト」みたいな分類があって、後者は生産的だけど〜みたいな話だ。心理的安全性があることで「仕事内容における対立」はおきるが、「人間関係に関する対立」はおきないっていう考え方もできるかもしれない。

そう考えると、自社の組織課題を「人間関係における対立」ではなく、「仕事内容の見解の違いであり、学習のために意味がある対立だ」と認識できる状況であれば、社外にも公開できるようになるのかもしれない。私もいろいろな人と話していて、「見解の相違」こそ一番面白く、私も興味を持つ。その人の視点から見てどう見えるのかを憑依して理解できるぐらいになると、大抵は理解が深まる。そうか、「憑依する」ぐらいまで理解するためには「あーだこーだ考える」プロセスを全部知らないと無理なんだよな。だから、ブログが長くなるんだ。

--2020/3/14追記

Quoraのパーティーに行ってきた、という記事をみていた。2011年の記事だ。引用したい部分は以下。

一番の感想は、「QuoraはQ&Aの形式をとった出会い系サイトなのかもしれない」ということ。何人か会ったことのない人と話をしたけれど、なんせQuoraで彼らが書いた答えを何度も目にしてきているので、話しかけるにしてもあんまり不思議な感じがしなかったし、周りでも、どんどん人が打ち解けておしゃべりしていた。(中略)興味深いのは、QuoraとFacebookの人間関係に対するアプローチの違いだ。Facebookはあくまでもオフラインの人間関係をオンラインに持ってくるサービスだ。(中略)Quoraはその逆で、オンラインで「質問と回答」という媒体を通してできたオンラインの繋がりを、ユーザーパーティーとか、ローカルなオフ会としてオフラインの交流に発展させている。

情報を発信することによる外部ネットワーク、という話が違う切り口で書かれている。はじめて会って話しているのに、初めての気がしない。なぜか。事前にその人が考えていることをたくさん知っているからだ。当たり前すぎるけど、ちゃんと言語化されていたからメモのために書く。Quora、たまにしか見たことなかったなあ。


誰かが書いてたけど、サポートしてもらったらそのお金をだれか別の人のサポートに回すと書いていて、それいいなとおもったのでやります!