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会社に落ちているゴミを自然にひろえるようになるまでに5年以上かかった

今日外出先で打ち合わせ中に出た話。いろいろな会社の総務部の人達が集まったときに、「ゴミ箱にたまったゴミを誰がまとめて捨てるか」などが共通の悩みとして出るらしい。役割を決める話でもないし・・・とか。でもこれはたんなるきっかけで、そこから発展した違う話を書く。

オフィスの廊下にゴミが落ちていれば拾う。これは普通に入社時からやっていた気がする。ただ、入社して5年目ぐらいだろうか、ゴミの拾い方が変わった気がする。何が変わったのか、今は打ち合わせ終わりの移動中だし、気分転換に電車の中で考えてみよう。

例えば、会議室で来客も通る廊下にゴミが落ちていたとする。私の前にも明らかに社員は通っている。気づかない人もいるだろうが、気づく人もいたはずだ。でも拾っていない。これは何かのサインなのか。シンプルに来客がある廊下にゴミが落ちていて、それを気にしない会社だとすると、何か基本が間違えている気がするということかもしれない。しかし、これは昔から変わっておらず、私がそういうことまで気にするようになった、という変化かもしれない。

上と関係あるが、別の観点。最初のうちはゴミを拾ってはいたが、拾うのは面倒くさいと思っていたのだろう。でもまあ拾う。で、入社5年後ぐらいに「さすがにここにゴミが落ちていたらまずくね?」という観点からゴミをひろうようになったので、それが「自然に拾えている」ということかもしれない。会社と自分の立場が一致してきたのだろうか。ゴミを拾うことも「誰かに強制されたあるべき論」でやらされていたということかもしれない。外発的動機と、内発的動機、みたいな話なのかな。うん、こっちのほうがしっくりくる。

給料日は、従業員にとってはお金がもらえる日だが、経営者にとっては自分のお金が亡くなる日だ、みたいな話がある。まあこれは視点のちがいなんだけど、日々の仕事において、私は「ゴミを自然に拾う」との同じぐらい、会社と自分をイコールにできているのだろうか、と問うてみると、まあぜんぜんできてないな、という感じがする。いち社員がそこまでやる必要はない、という観点もあるから、全社員がそうなるべきだとも思わない。

ゴミを自然に拾えていなかったとき「自分に至らない部分がある」と認識していなかったはずだ(当事者意識もったほうが良いという前提で「至らない」という話)。ゴミは拾ってるわけだし。外からは何も違いがわからない。でも、なんとなく会社にゴミが落ちていることについて、拾ったときの感じが違うな、ということはずっと感じていた。でもいままで意識にあがっていなかった。今日、総務部のゴミの話で、いきなり意識にあがってきた。そして、すぐに「これはどういうことだろう」と考えてみる習慣がついたのも、ここ2年ぐらいだ。これは、リフレクション・ラウンドテーブルの研修にいってからだ。

はいおわり、仕事にもどります。



誰かが書いてたけど、サポートしてもらったらそのお金をだれか別の人のサポートに回すと書いていて、それいいなとおもったのでやります!