月光密造のクーデターテープ
慣れてくれば月灯りだけでも十分に歩いていける。それに今日は満月だ。僕が持っているなかで一番頑丈な靴を履いてきたし、ずっと歩いても暑すぎないくらいの重ね着、頭にはタータンチェックのハンチング、完璧だ。
立ち止まって空を見上げる。あの子も月を見ているだろうから月にはあの子の顔が映っていて、あの子が見上げている月には僕の顔が映っているのだ。だから怖くないし、不安なんて何一つない。
僕は背中のリュックを後ろ手に触って、その中でガチャガチャと鳴っている瓶たちを大人しくさせようとする。丈夫だから割れはしないけど、静かな夜にちょっとうるさい。
全部で8本、僕のぶんは7本。14年と半年生きてきた僕のすべてがここに詰められている。これが多いのか少ないのか分からないけれど、これ以上入れるものはもうないと思ってる。
月がゆっくりと天頂に近づいている。僕は汗をかかない程度に少し歩を速める。一週間前にやったリハーサルが完璧だったから、もうすぐ森に入るけど、道に迷う心配はない。この前と違っているのは、空気が少しだけ冷たくなったこと、虫の声が少し小さくなってることと、あの子が隣にいないことだけだ。
「湖の底に、深く深く沈めるの」とあの子が言った時、夏の終わりのあの夜、僕は一も二もなく賛成した。そこからは準備で忙しかった。満月が天頂近くにくるこの日を決行の日と決めたから、そこから逆算して3カ月ちょっとしか時間がなかった。
僕はずっと集めていたフレーズを結晶化させて一つずつ瓶に詰めていった。今まで触れてきた詩の中から特に気に入った言葉たち。
まず目をゆっくりと閉じて、顔の前で、決まった順番で両手の指を組んでゆく。順番はぜったい間違えないように。まじないの言葉を唱えた後、目を開けて指に息をそっと吹きかけ、フレーズを正確に口にする。両方の手のひらの間に砂がこぼれ落ちてくるような感覚があって、それを下に落とさないようゆっくりと手を開くと、小さなきらめく結晶ができている。これで完成。
僕はたくさん詩を読んできたし、詩人のお話を聴いてきたし、歌にも毎日のように触れてきた。だからこんなふうに残したいフレーズはたくさんあって、瓶はどんどんいっぱいになっていった。
あの子は今まで集めた写真を結晶化すると言って、自分が撮ったものはもちろん、本や雑誌やその切り抜きや、何かのパンフレットなんかをどっさり集めてきた。それを一つ一つ吟味するので、びっくりするほど時間がかかる。そうやってじっくり選んで結晶にするのはほんの一部で、傍目にはあの子が昔のアルバムを見て懐かしんでいるだけの人に見えた。
そうして僕が7本めの瓶をいっぱいにしかけていた頃に、あの子はやっと1本の瓶を満杯にした。
「最後の瓶に少し空きがあるなら、私たちの言葉も残そうよ」とあの子は言った。正直、厳選されたフレーズの中に異物が混じってしまうようで、僕は乗り気じゃなかったけど、あの子は珍しく譲らなかった。
あの子は写真を結晶にできるけど、僕にはそれはできない。同じようにあの子は言葉を結晶にできない。だからあの子の言葉も僕が結晶化することになる。
改めて残す言葉、と言われても何も思いつかないなと思っていたら、あの子がこう言った。
「私たちも、みんなも、この寮も森も全部なくなるくらい時間が経って、この瓶が見つかるの。それを開封してくれる誰かへの言葉にしよう」
僕たちは普通種(オーディナリー)と違って、こどもをつくることができない。その機能がない。そのかわり、なのかはわからないけど、結晶をつくることができる。
でもそのちからも遅くても20歳になるまでに消えてしまう。
ちからが消えたら僕たちは街へと”出荷”されて、普通種の人のところへ行くことになる。誰か、僕たちのことを欲しがっている人のところで、愛されて一生優雅に暮らすのだ。
普通種の人たちは、こどもをつくることができるけれど、最近はあまり自分たちのこどもをつくらないらしい。
僕も彼らのセックスについては知識として知ってるけど、確かにあれは流行らないと思う。お互いバカみたいな格好をしててダサい。僕ならあんな格好でへこへこ腰を動かしたくないし、好きな人にあんなポーズをさせたくない。
だから、普通種の世界でもセックスは廃れたんだろうと思う。
よくは知らないのだけれど、僕は普通種のことは嫌いじゃない。自由がなくなる、って出荷を嫌がる仲間もいるけど、愛されるのなら悪くないと思う。それに何より、あんなに美しい言葉を残したりする人たちに、興味があった。
だから僕はいつ出荷の日がきても大丈夫だった。そう思っていた。あの子のほうが先に出荷されるとは思わなかったけど。
背中の瓶の音や、ハイカットの靴が踏み鳴らす落ち葉の音を、まるきりかき消すようにして木々がザアザアと鳴っている。森に入ったら風が急に強くなったのだ。
頭上の葉が月明かりを遮るので、友達から貰った灯りの結晶をポケットから取り出す。小瓶に入ったそれを手のひらの上に出すと、すぐにあたたかな光を放ち出す。手づくりの鎖をつけてくれていて、首にかけられるのがありがたい。
一週間前にあの子と一緒に木に括りつけたリボンの目印を頼りに、森の奥へ向かう。あの子がいなくても、段取りはそんなに変わらない。もし今夜隣にいても、静かに微笑んでいるだけで、実際の作業はほとんど僕がしてたことだろう。
月が隠れると、あの子が遠くなるような気がして、ほんのちょっとだけ寂しさを感じてしまう。そんな時は瓶が詰まったリュックを両手で下から支えて、その重さをしっかりと感じるようにする。これは二人分。二人の共同作業なんだ。
39本目のリボンが結えられた木の横を抜ける頃には風は止んでいる。
僕も音を立ててはいけない気がして、歩を緩めて静かに進む。
急に空と足元の両方から明るくなる。
湖に出たのだ。
月はまさに天頂に届こうとしていて、真下の湖面はその光を存分に反射している。ほんの少しの波音さえも聴こえない。水面はどこまでも滑らかで、時間が止まってしまっているようだった。岩陰に隠しておいた舟をそっと湖の淵へと滑らせると、波紋は静かに、どこまでも遠く広がっていった。
湖の中央まで漕ぎ出て、まずはアンカーを下ろす。
アンカーからのロープの張りを確認して、リュックから瓶を一本ずつ丁寧に取り出す。瓶はもう一本のロープで繋いでおいた。一本ごとの間隔はちょうど親指から小指を開いた距離のふたつ分、間違っても水底で瓶が離れ離れにならないように、きつく縛りつけておいた。
ロープの一番先には彼女の写真が詰まった瓶、一番手前は僕たち二人の言葉も入った瓶。
ロープには浮きはつけない。沈めたらそのまま。「沈めたら、すぐに忘れなくちゃ」そうあの子は言っていた。
沈める前に瓶を舟の上に並べて、仮どめしておいた栓を開ける。
真っ直ぐ上を向いている瓶の口に、天頂からの月光が降り注ぐ。
淡く黄色みがかった光の粒子は、垂直の軌跡を描きながら静かに落ちてきて、瓶の中にも入っていく。瓶の中で月光はしずくのようになって、結晶と結晶の隙間を満たしていく。注意深く見ないとわからないほど、ゆっくりと。
僕は舟の上に仰向けになって、月光のシャワーを浴びながら、同じように月を見ているはずのあの子に合図を送る。「順調だよ」
きっとあの子もこれを見て合図を返してくれている。「了解です」。それは目で見ることはできないけど、あの子は街のどこかの普通種の家の窓から、月を見上げて合図してくれている。必ず。約束したわけじゃないけど、計画の日はずっと前から決めていたし、日にちを忘れてしまったとしても、月が天頂にくる晩は今夜しかないんだから。
月光が瓶の口から溢れ出し、僕は一本ずつ栓を閉じ始める。今度は仮どめと違って、最後に蝋で封をする。
最後の8本目に栓をしようとした時、月光を流し込みすぎてしまったのか、一つの結晶が瓶からこぼれ出してしまった。
最後の瓶の最後の方に入っていた言葉だから、僕たちが残そうとした言葉かもしれない。
正直瓶に戻しても戻さなくてもどっちでもいいかなと思ったけど、月越しにあの子も見ているし、こぼれた結晶を拾い上げた。
僕の手の中で結晶はほどけだし、1枚の写真になった。
あの子のつくった結晶だった。
僕とあの子が無邪気に笑っていた。
この世界の仕組みをまだ知らない、僕たち寮に入ったばかりの頃の写真。
僕はやや雑な手つきで8本目に封をして、ロープをたぐりながら全ての瓶をゆっくり水底に沈めていった。自分がなぜ泣いているのかわからなかった。8本全部が底に沈んだ手ごたえを得て、残りのロープをどさりと舟の外に投げ捨てた。大きな波紋が広がって、それがだんだんと小さくなって、やがて鏡のような水面に戻った。涙は止まらなかった。
僕たちの残した言葉が、いつか誰かの耳に入る日がくるんだろうか。
あの時、僕とあの子が、伝えたかった言葉。
僕たち自身に投げかけたかった言葉。
「もう、そこから逃げ出しちゃおうよ」
inspired by 『月光密造の夜』(スカート)、『2090年のクーデターテープ』(有頂天)
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