繰り返し、繰り返す

人生。いろんな悩みや問題が浮かび上がっては、それを処理する。
何か行動を起こすこともあれば、嵐が過ぎ去るのを待つ時もある。
じっとしていられない性格だから、とりあえず動いてみる。
どうしようもない時もある。
諦めを受け入れていくのも人生。

与えられた課題をこなしていく学生生活を思い返す。
人生はあくまで同じことの繰り返しで、曇天の中を生きている。
たまに、雲間から日差しが差し込んで救われた気持ちになる。僅かな時間。

仕事を始めてからとにかくいろんな人と関わる機会が増えた。
当然だけれどこの道を選んでいなければ、出会えなかった人もいる。
別の道を選んでいたら出会えていたであろう誰か。輪郭も朧げな、その誰か。
人との関わりの中で、ゆっくりと自分の内側が摩耗して、それらしい形に変容していく。
それも受け入れていく。
どちらかといえば穏やかな関係ではなく、ヒリヒリさせられることもあれば、イライラさせられることもある。もちろん、感謝することもある。
利害が絡む関係性というのは、得てしてそういうもので、お互いの最大の利益のために働いている。と、思いたい。
基本は自分の数字のことしか考えていないし、数字にならないことには意味がない。目指す結果は分かりやすいけれど、そこに到達するまでは手探り。

こんなことを繰り返していて何になるのだろうか、と思うが、こんなことを繰り返した先に何が見えるのかが知りたい。何もないならそれでいい。

子供の頃、訳もなく、祖父母の所有する山を走り回ったことを思い出した。
鬱蒼と生い茂った木々の間の獣道をただ走り回った。
その先に何もなくても、それでよかった。

とにかく分かりやすい結果やアイデンティティを持つことを求められる現代で、「何もない」ことを確かめることは、無駄で忘れ去られてしまったように思う。
山から抜け出して外の世界を見たら、実利的で資本主義的で、皮肉と諦観で溢れている。
それでも日々のことをやっていくしかない。
皮肉めいた笑みを浮かべる、社会に対してきっぱりと諦めのついた大人は、実利的で資本主義的であることで、なんとか今日も自分をコントロールしているのだろう。

毎日同じことの繰り返し。それが平和的な営み。
僕たちの日常が誰かの気まぐれによって保たれているに過ぎないと分かっていても。

自ら進んで非日常へと飛び出していける人はすごい。
それを見るたび、とどのつまり自分はコンフォートゾーンの中にいたいだけなのだ。と思い知らされる。
安定した場所から、安定への焦りを発信する。
発信したそれは、あくまで自分が見せることを想定した人だけに届く。
何かを変えることは決してない。
結局、怖いだけなんだ、とも思う。
外の世界への扉はとっくに開けているのに。

俺は、いつまでもあの鬱蒼とした森の中から抜け出せない。


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