#8 自由とは空を飛ぶこと?

 空を飛んでみたかったんです。
 その憧れが、いつからあるものなのかは分かりません。
 いつの間にか、なんとなく、私の心にぷかぷかと浮かんでいました。
 
 東方projectという同人ゲームのキャラクターに、“博麗霊夢”という巫女がいます。
 この巫女は、「空を飛ぶ程度の能力」という特殊な能力を持っています。この能力に対して、私は強い憧れを抱いています。好きなんです、とても。
 
 以下、能力の詳細を抜粋します。
 
(引用開始)
 
 彼女の能力は空を飛ぶこと、つまり無重力。
 地球の重力も、如何なる重圧も、力による脅しも、彼女には全く意味が無い。
 身も心も、幻想の宙をふわふわと漂う不思議な巫女である。
 相手がどんなに強大だとしても、彼女の前では意味をなさない。
 
(引用終了)

 
 ただ空を飛ぶということが、私の夢なのではありません。例えば、VRで空を飛ぶ経験ができたとしても、それで私の欲求が収まることはないからです。
 空を飛べるということは、即ち自由の象徴です。
 もしかしたら私は、自由に憧れているのかもしれません。
 博麗霊夢は精神的にとても自由に見えたから、私は彼女に対して強い憧憬の念を抱いているのだと思います。
 
 私は「作家になりたい」という夢があります。
 でも、本を書いて、読んで貰いたいから。そんな純粋な思いで、作家になりたい訳ではありません。
 私が作家になりたいと願ったのは、作家という存在が自由に見えたから。
 経営者や芸能人と違って、背負っているものが軽く見えて、縛られていないように見えたから。
 
 だから、作家になりたいと願っているのだと思います。
 確かに私だって、自分の、自分だけの、自分が本当に読みたいと思う小説を書きたい。
 でも、「自由な存在になる為に、作家を目指している」。そんな思いを私は否定し切れないんです。
 
 でも、そうなると、自由って一体なんなんだろう、と疑問を持ってしまいます。
 
 昔は、作家が自由な存在に見えました。
 でも、今はちょっと分かりません。
 どんな職業でもそうですが、余人には見えない苦労があるものだと思います。
 昔の私が思っていたほど、作家という存在は自由ではないのかもしれません。
 
 ならば、自由とは?
 
 もしかしたら自由とは、ブッダのような存在を言うのかも。悟った人が、世界で一番自由なのかも。
 そう思いました。
 
 私たちは、世界に生まれて、社会に生きる最中で、様々な制限、社会のルールに縛られていきます。
 例えば、それは。
 
 人を殺してはならない。
 学校に行かなければならない。
 仕事をしなければならない。
 税を納めなければならない。
 
 生まれたばかりの子供は、自らが無知であることすら知りませんが、親や周囲の大人から、様々なことを教えられ、周囲の常識に染められていきます。
 それが、その子にとって為になることなら教育であり、悪影響になるのならば、洗脳と言うのでしょうか。
 これを私なりに言い換えるなら、私たちは子供から大人になっていく過程で、どんどん「不自由になっていく」と言えるのかもしれません。
 
 悟る、とは「差を取ること」。
 全てが空であると、体感で理解すること。
 全てから差を取れば、全ては空となる。
 あらゆるものは、あると思うことであるし、無いと思うことで無い。
 まるでそれは、不気味な木目を幽霊だと勘違いするようなものです。
 
 幽霊は存在しませんが、しかし、存在すると思う人の中には、存在はしなくても実在はする。
 お金もまたそうです。お金は存在すると誰もが思っていますが、実際あれはただの紙切れです。
 例えば、明日、日本が滅べば、一万円札は、火を燃やす為の燃料に変わるでしょう。
 
 私たちがあると思っているものは、結局あると思っているからあるだけで、それは幻のようなものに過ぎません。
 それが、空なのだと私は思います。
 
 ならば。
 全てが空であるならば、何をしても良いのでしょうか。
 働かなくて良いし、腹が減ったなら盗めば良いし、性欲が湧いたなら、そこらの美女を犯せば良い。
 だって、空なのだから、何も問題はない。
 これが、『究極の自由』だ。
 
 ……本当にそうなのでしょうか?
 
 働かなければ、お金が稼げなくて飢えるし、盗んだり犯せば、逮捕されて刑務所にぶち込まれます。
 全てが空であることを理解していれば、そんなことは何の問題にもならないのでしょうが……どうも、そんな生き方には抵抗があります。
 
 ブッダは、悟りを得た時、それを沢山の人に伝えようとしました。そのまま一人で空に生きて、死んでも良かったのに、です。
 それは、何故?
 私には分かりません。
 
 ですが、ブッダの生き方からは、ある考えを読み取ることができます。それは、たとえこの世が幻であったとしても、全力で生きても良い、ということです。
 世界を幻だと理解して、それでも目の前にある誰かを全力で救う生き方をしても良い、ということです。
 
 私たちは、究極何をしても良いです。
 人を殺したところで、それで結局、何になるのでしょうか。何にもなりません。
 別に刑事には、やってはいけないと書かれている訳ではありません。やったらどうなるかが書かれているだけです。
 
 本当に駄目だったなら、最初から世界は、人を殺せないように創られて然るべきなのではないでしょうか。
 
 とはいえ、人を殺したことが、究極何の問題にもならないのだとしても、私たちはその行為を全力で厭悪しても良い訳です。
 人を殺すこと、人を殺さないこと。
 俯瞰して見れば、その二つの行為には何の差もありませんが、それを理解した上で、「私は人を殺さない」と誓っても良い訳です。
 
 自由な存在から、不自由な存在になっても良い訳です。
 
 別にニートになったって良い。
 家族は困りますが、全ては空なのだから。
 しかし、それは私の認識の上での話です。
 現実として、家族は困ってしまいます。
 
 VRMMOみたいなものです。
 どうせゲームだからと、マナー違反な行為を取ることもできますが、そうすると他のプレイヤーが困ってしまいます。
 ゲームだからと、やりたい放題するのが、本当の自由と言えるのでしょうか。
 
 全部が「空」だからと、他者の思いを否定する道もあれば、たとえ「空」だとしても、と他者の思いを肯定していく道もある。
 
 だとしたら、なんとなく、本当になんとなくなんですけど、自由とは空を体感することではなく、その先にあるのかもしれません。そう思いました。
 全ての束縛から解放された。その後に、今度は自分から望んで縛られにいくのが、本当の自由なのかもしれません。
 
 自分が望む束縛。
 自分が心から納得できる束縛。
 その束縛を自ら請け負うのです。
 自由に不自由になりにいくのです。
 
 ならば、自由とは“納得”です。
 自らの行動に百パーセント納得すること。
 理不尽もまた、納得すれば理不尽ではなくなる。
 望んで背負った苦労や義務を、私は“不自由”とは言わず、“自由”と呼びたい。
 
 この道は私が納得して選んだ道なのだから、どんな障害や問題も、理不尽でも何でもない、と。
 
 ここまで書いてきて、何故か私は「ジョジョの奇妙な冒険」のキャラクター、“ジャイロ・ツェペリ”のセリフを思い出しました。
 
(引用開始)
 
 「納得」は全てに優先するぜッ!!
 でないとオレは「前」へ進めねえッ!
 「どこへ」も!
 「未来」への道も!
 探す事は出来ねえッ!!
 
(引用終了)

 
 納得すること。納得できること。
 それは、つまり自身が心から望んだこと。
 それができれば、どんなに束縛や制限の厳しい人生であっても、自由だと思えるかもしれない。
 そのように思いました。
 
 それでは、また。
 

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