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愛の表明

 優しいことばを紡げる人は、それだけ痛みを知っている人だと思う。だからこそ、私はそんな人に触れることができない。私は人に優しくなれないから、優しい人を大切にできない。

 ずっと、と言わずとも一日に何度もその人のことを考えてしまって、恋かもしれないと期待をしたりするけれど、多分これは恋ではなくて、愛である。人間としてあまりに愛おしくて、私がその人の心に触れることはきっと叶わない。きっと私はいつかこの手で傷つけてしまうから、私の手に触れられないところで幸福に生きていて欲しい。

 他人の思想を好きだと感じるのは、自分の思想と近いからだ。自分が思っていることを誰かが代弁しているのを見るのは心地よい。その人の思想が自分と近ければ近いほど好きだと感じるけれど、それ以上に、関わってはいけないような気がしてくる。私が傷つきやすいように、その人も傷つきやすいかもしれないから。

 これは紛れもなくその人という人間への愛で、たとえ恋ではなくても大切で、だから触れないことにする。それが私なりの愛だと言い聞かせている。傷つけてしまうくらいなら初めから出会いなどなくていい。「あなたが大切」なんて言えなくていいから、ただ私の与り知らぬところで幸福に生きていて欲しい。それがあなたを大切にするということだと思う。思いたいだけかもしれないけれど。

 そう思っていないとどうにかなってしまいそうで、こんな言葉も私のエゴなのかもしれない。あなたが幸せでいて欲しいと思うことすらエゴならば、どうしたら良いのか、私にはもう分からない。人間は自分のためにしか動けない、と誰か一蹴してほしい。自分のためにその人のことを想うし、自分のために触れないようにする。傷つけた事実に私まで傷ついてしまうのが怖くないと言えばもちろん嘘で、そうして傷つけ合う未来が恐ろしいから、触れないことを選んでいる。私のためだと言われても無理はない、それでもそうすることを愛だと、私は呼ぼうと思う。

 誰かの思想を愛することが罪に問われる世界じゃなくてよかった。あなたという人間をこの手で愛せなくても、密かにあなたの思想を愛していることが許される世界でよかった。人間として愛される自信も愛する自信もないけれど、心に触れることもできないけれど、そばにあるあなたのやさしさに泣ける自分でよかった。

 これを、愛の表明とする。



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