【アート×デザイン思考と都市文化】⑵ラブパレード
ドイツとテクノ
皆さんはテクノというジャンルの音楽を聴いたことがあるでしょうか?前回の投稿【アート×デザイン思考と都市文化】⑴クラフトワークのイノベーションでご紹介したクラフトワークがこのジャンルのルーツとされていますが、その後独自の発展をして、信号だけのような無機質でメロディーすら排除したミニマルないわゆるテクノに進化していきます。ドイツでロックのオルタナティブな表現として発生したテクノポップは黒人ダンスミュージックであるハウスミュージックと融合しデトロイトでテクノというジャンルとして確立されます。
このテクノをドイツ連邦税務裁判所は2020年、クラシックと同様の音楽と認めコンサート会場と同様にDJによるクラブの軽減税率適用の判断を下しました。インディペンデントでアンダーグラウンドな独自の背景を持つテクノがドイツの文化にどのように影響してきたかを調べてみました。
ベルリンは世界で最も町にテクノが馴染んだ町。
その背景にはベルリンで開催された世界最大級のテクノイベント「ラブパレード」があります。1989年ベルリン壁崩壊直前に開催された最初のラブパレードは150人程度の小さな屋外DJイベントから始まり。最盛期の1999年には160万人を動員する巨大な国家イベントに成長しましたが、2010年の21人が事故で死亡し終焉を迎えました。世界的にみてもこれだけの規模のダンスイベントは南米最大の祭典、ブラジル・リオデジャネイロのカーニバル(約200万人)くらいでしょう。
「ラブパレード」のコンセプトは”ラブ&ピース&パンケーキ”
このコンセプトの背景には60年代のヒッピー・ムーブメントのがあり、イギリスを発祥とする80年代の”セカンドサマーオブラブ”といわれるダンスミュージックのムーブメントの影響が色濃くあります。レコード会社の主導による商業的な音楽に対するカウンターカルチャーとして非商業的なDIY精神とドラッグによる解放感でムーブメントととなり倉庫や人里離れた野外などでDJパーティーが多数開催されました。何かに反対するデモではなく、それぞれが自分のスタイルで音楽を通して共有する場の開放感が大きな魅力となり。”セカンドサマーオブラブ”のムーブメントは一気にヨーロッパに広がります。
ベルリンの壁崩壊とともにテクノが町を飲み込む
1990年、ベルリンの壁崩壊とともに150人から始まった「ラブパレード」は徐々に巨大化し最終的に160万人動員する巨大イベントになります。パレードには当然入場料もなく老若男女が集いテクノで踊ります。なぜ、ベルリンでこれだけの大規模なイベントになったのか?なぜ、ベルリン市は一見デモの様にも見えるイベントを規制しなかったのか?ベルリンのラブパレードに初期から10年に渡り日本から参加し、日本とドイツのテクノミュージックの伝道者でもあるDJTobby氏に当時の話をうかがいました。
その背景には徴兵制の免除があるといいます。西ベルリンは徴兵を逃れた自由なアーティスト気質の若者がたくさん集まっていました。西ベルリン転居で兵役を逃れた若者は1990年までで3万〜5万人といわれています。彼らは当時たくさんあった廃墟でDIYのパーティーを始めました。お金をかけないで自分たちで遊ぶ場所を作り出すことが当たり前の環境があったといいます。他人と同じことをすることを嫌い、質素ではあるが、それぞれが自立して自分の表現をするアーティストやパンクスやゲイやヒッピー達が音楽で共感する場所を自らの手で作り上げていく土壌からラブパレードは生まれました。コマーシャリズムとは真逆のDIYからこのムーブメントは起こったのです。
また、政府も巨大なデモを容認していたといいます。それは、ナチスのトラウマから規制で縛ることで反乱分子や徒党を生むことを避けるために、デモを容認すること事でガズ抜きをするという意味があったといいます。「ラブパレードはピースフルなガス抜き」でもあるといいます。「何度も行ったけど、みんなハッピーで喧嘩なんか見たことない。警官も一緒に踊ってた」とDJTobby氏は語っていました。
在独ジャーナリストの熊谷徹氏は
『年収が少なくても、自由時間、芸術活動、趣味、自然との触れ合いなどによって「心の豊かさと安定」を得ることは可能である。人間を測る尺度は年収や資産だけではない。心のゆとりや社会への貢献度、周囲の人々との関係も劣らず重要である』
(引用:「ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか」 (青春新書インテリジェンス) )
ラブパレードが象徴するのは個人の在り方、つまり自分軸を持ってお金では買えない心の豊かさを優先して生活するということではないだろうか。
つづく
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