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「invisible cinema まだ見ぬ君へ」

メディア芸術の総合フェスティバル「第24回文化庁メディア芸術祭 受賞作品展」spiralで開催された「invisible cinema まだ見ぬ君へ」を体験して来ました。(すでに公演は終わっています)
サウンドアーティストevala氏による音だけの“耳で視る映画”です。

暗闇という非日常はジェームズ・タレルの「南寺」でも経験しましたが、暗黒の70分間というのはかなり長いです。暗闇の中から雨や波の自然音に混じって電子音がサラウンドで聞こえてきます。最初は暗闇の中で音を意識を集中して脳内に音像を構築していきます。
サラウンドに関しては神経生理学者、Hugo Zuccarelli氏の「ホロフォニクス」(ヘッドフォンで聞くタイプですが)を体験してしまっているので、それ程立体的ではなかったので没入感まで行かなかった事もあり30分くらいで実はちょっと飽きてきました。
むしろ、それからがすごかった。それが作者の狙いなのかも知れません。
目を開けても光が全くない闇と対峙しいるうちに色々と妄想をはじめました。この妄想の非現実が本質的な自分の体験でした。

自分の周りには30人位の人がいるのに全く見えない、音のおかげで人の気配も感じられない。その状況がとても面白くて、見えてない事を良い事に隣の人を睨みつけたり後ろの人にピースしたり。周りに人が居るのに見られていない状況を楽しみ始めました。自分の目も空いている、相手も目の前にいるのにもかかわらずこちらが睨みつけても変顔しても見えていないわけです。それこそがこの空間の非日常です。

そして、やってはいけない事を思いついたのです。
お○ん○んを出してみたい。
何なんだこの衝動は、、
妄想は膨らみます。暗闇のなかで猥褻物陳列、、
もし、急にライトがついたらどうなる?大のオトナがお○ん○んを出してるところが露わになる、、あー、妄想が止まらない。あー、なんて作者の方に失礼な妄想、、この罪悪感は一体何なんだ、、
どうしたかはご想像にお任せします。人生は実験です。

新しい気付きを得ることができました。闇が公衆を覆い隠すことで、存在するはずの他者との境界やモラルが闇の中に内服されて無化してしまう。もっと拡大解釈してみます。もし世界中の人が視覚を失った世界になったとしたらどんな世界になっていただろう?容姿は関係ない、相手がどんな顔かどんな服装も関係ない、それは絶望なのか?平等なのか?創造を絶する世界です。今起きていることが公衆の面前で口を隠すこと、これが当たり前の社会になっています。もしも、何かの細菌が世界中の視力を奪ったら世界はどうなるのか?または、人が生まれつき視覚を持っていなかったら世界はどうなっていたか?この当たり前を疑うこと、もしもから妄想や創造が生まれ、新しい現実が作られていくのです。これだけで映画が1本撮れそうです。この思考自体がアート思考と言っていいのだと思います。

それから別の妄想をはじめました。

もし、真っ暗の中で何の決め事もなく即興ライブ演奏をしたらどうなるだろう?
視覚がない中での演奏はどんなものになるのか?演奏にアイコンタクトは時々使いますが、視覚を遮断される事で自分の演奏に集中する事ができ、観客も音に集中できるんじゃないか?音楽特にライブには視覚的要素が多くを占めています。それを寸断すると観客の音楽から受ける世界観が圧倒的に変わるのではないか?
とか、、そういうライブってあるんでしょうか?体験したことがある人がいたら教えてください。

暗闇での70分間はとても有意義で新しい思考と出会う特別な時間となりました。作品は作家の手を離れた時点から鑑賞者の世界に委ねられます。全ての作品とは言えませんが、作家の意図や思いとは全く違った捉え方をする事が許されているの現代アートの良いところであると思います。自分なりに感じた思いを大切にすることだと思います。

最後の5分位で初めて映像が出てきます。これが素晴らしく効果的でした。
ネタバレになるのでここまでにしておきますが、是非体験してもらいたいインスタレーションでした。


ちなみに、帰り際にspiral cafeのロイヤルミルクティーを飲みました。

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1杯1000円だけど、本当においしい!優雅な気持ちになります。
表参道に来る時は必ず、この贅沢だけは許します。


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