『ホーランジア』03 潮干狩りは戦い
4月最後の週末、私は家族と潮干狩りをしに海へ向かっている。まだ涼しいというよりは寒いに近い体感だけど、潮風の吹き込むドライブは心地いい。
「海! 海だ! ねーちゃん、見てほら海! ほらまた見えた! こっち側ずーーーっと海だぜっ!!」
「葉月うるさい、テンション高過ぎ」
「いいじゃん! だって海なんだぜ!」
車窓から望む景色は住宅街で旅行気分になるほどのものではないのに、家と家の隙間からチラチラと海が見える度に弟が叫ぶ。
窓から乗り出しそうな勢いで興奮する弟に呆れつつ、私も密かにテンションアップしている。海のない県で暮らす私たちにとって、鼻をくすぐるかすかな潮の香りはそれだけで非日常だ。
潮干狩りは去年の今頃以来だし、今年の夏休みは泳ぎに行きたいとか言っても受験生だからダメって言われそうだし、これがきっと最後だろう。
「もうすぐだぞ」
「渋滞しなくてよかったわねぇ」
「水平線!」
海沿いの道に出た途端、視界が大パノラマになって、私も思わず声を上げた。空と海の境界線が、どこまでもどこまでも続いている。午前中のまだ低い太陽を、波がキラキラと反射させて輝く。凪いだ沖は、白んだ空の色を鏡みたいに映していた。
海ナシ県といっても、海を見たことがないわけではない。何度も来ているし。だけど、実際に近くにくると本物はやっぱりすごい。広がりがあって、奥行きがあって、香りがして、風が吹いて、スケールの大きさに圧倒される。
車を駐車場に置いて海へ向かう途中、不意に人の気配が近づいたと思ったと同時にシャッターの音がした。一瞬、不審者かと思って音のした方を向くと、晶がいた。
「なんでいるの?」
「母さんが弥生のお母さんに誘われて、じゃ行こうかって」
「え!? ちょっとお母さぁん」
そんなこと聞いてないよ、テンション下がる……。
早く砂浜を歩きたい一心で、私の気持ちは足に集中していた。つまり顔のほうは無防備極まりなく、ひたすらずんずんと歩いていた。そんなアホ顔をまたしても撮られたのだ。
「てかいきなり撮んないでってば」
「だって、海と弥生ってやっぱいいなぁと思って」
「良くないよ。ガッツリ潮干狩り装備にすっぴんだよ」
「……気になることがあるんだよ」
「なにそれ」
「なんでもない」
「じゃ言わないでよ」
別に晶のためになんておしゃれしても仕方ないけど、それにしたって家族仕様のナイロンジャージ姿はないわと思う。気になることがあるとか、意味がわからないし。
白いハーフパンツジャージのセットアップで、中にかろうじてお気に入りのピンクラメのロンTを着てるくらいで、髪だってただひっ詰めてるだけ、そしてどすっぴん。同級生に見せられる格好じゃない。
よく考えたら、今年最初で最後の『海』に行くということに気を取られて、出会いがあるかもしれない事まで気が回っていなかった。もっと、気合入れておしゃれして来ればよかった。
「よっ葉月」
「晶にい! 行こう、波の方行きたい!」
「わかったわかった、引っ張るなよ」
「うふふ、うちの晶と葉月君、兄弟みたい」
「ほんとねぇ」
萎える私をよそに、二つの家族は元々わりと深い親交をさらに深めている。こんなの、なんだか面白くない。こうなったら誰よりも多く獲って帰らなきゃ。
今日は中潮だからそこそこ獲れそうだ、って車の中でお父さんが言っていた。両手に潮干狩り道具という、恋愛要素ゼロな勇ましい装備を恨めしく思いながら砂浜を進む。潮が引いていて、駐車場から海水があるところまで結構遠い。歩くたびにナイロンジャージが擦れて、シャカシャカと音がする。気分は魚市場だ。いいの、どうせこんなところで出会いなんてないんだから。
だいたい、もし出会ったところで「出会いの場所は潮干狩りの砂浜」なんて嫌だ。同じ海で出会うなら、やっぱり南の島! ヤシの木と、どこまでも続く白い砂浜、青い海に青い空! そう、こないだの夢で見た場所みたいな。
あの夢は一瞬だったし、ちょっとリアルで怖かったけど、すごく綺麗な海だった。あんな場所、日本にはきっとないんじゃないかな。んー、沖縄とか? そんなくだらないことを考えながら、足が海水に浸るところまで来た。本当は海水のないところで取りたかったけど、晶と離れたかったから仕方ない。
もう少し先のほうで、膝くらいまで海に浸かりながら潜る勢いで挑んでいる人も見えた。もしかして干潟よりこっちの方が多く獲れるのかな。こうしちゃいられない。そう、ここは戦場なのだ。貝にとってはまさに生きるか死ぬか。そして誰が最も多くの財宝を手にできるかの決戦場なのだ! いざ、出陣!
お尻に波が付かないように気を付けながら、水際にしゃがんでザリザリと掘ってみる。新兵器は「草かき」。貝なのになんで「草」? って、今でも半信半疑。本来は庭の雑草を取るのに使うものだけど、葉っぱをかき集めるために細かいクシ状になっていて、お父さんが誰に聞いたのかたくさん獲れるぞって全員分わざわざ買ってきた。これ、ついでに庭の草とりもさせられるとみた。
何年か前に来た時は熊手を持ってきていた記憶がある。お父さん曰く、熊手は生きているアサリにヒットしにくいらしい。生きている貝はタテになって埋まっていて、熊手だと隙間をすり抜けてしまうとか。確かにその時はそんなに獲れなくて、晩のお味噌汁になって終わったような……。今年はもうちょっと獲れるかな?
カチっという音と手ごたえがあった。何か引っかかった感じだ。開始早々の当たりに、テンションが急上昇。なんだか恋でもしているみたいに胸が高鳴る。貝かな? 大きいのだといいな……。
手ごたえのあった場所を、こするようにして更に掘るとゴロリと泥から離れる感触。
「あった!」
いきなりの大物だった。
泥砂の付いたそれを海水で洗うと、5、6センチくらいの茶色くてツヤツヤした貝。
「わ、これハマグリかも!」
正直、貝の種類なんてよくわからないんだけど、見たことある貝だと思った。とりあえず獲って、あとでお母さんたちに分けてもらえばいいかな。
夢中になってその周囲を掘った。
水分を含んだ砂は重たくて、掻いても掻いても水に溶けるみたいにして元の形に戻ろうとする。
細かい目が泥を捉えて、手がすごく疲れる。
「砂、重たっ。やっぱ貝なんて買ったほうが早いって……あっ!」
へこたれ始めたところでまた何かに当たった。
「アサリ? 違うかな。お味噌汁のアサリはもっとザラザラしてた気がする。小さいけどこれもさっきのと同じっぽい」
獲れると、楽しい。
でも疲れる、そんな感じ。
その繰り返しで、波打ち際を伝って掘り進む。
「ねーちゃん、こっち来んなよ、俺たちの陣地だかんな」
葉月だ。いつのまにか近くまで来ていたみたい。せっかく楽しかったのに、ホント弟ってウザいし、晶も一緒だ。
「陣地とかないし。てかアンタの土地じゃないでしょ」
「広いんだからわざわざ来んなってんの!」
「弥生、調子はどう? こっちは結構獲れたよ」
晶が近づいてきて、バケツを覗き込んだ。
「結構獲れてるよ。ほら」
「おお! でかいの多いね」
「えー、ねーちゃんずりーよ」
「ずるいとかないから。アンタが下手くそなんでしょ、道具おんなじなんだから」
「下手とか言うな! まじウゼぇ」
「はぁ? こっちのセリフなんですけど」
「まあまあ」
晶が間に入ってやっと葉月がおとなしくなった。昔はもうちょっと可愛げあったんだけどな。
「あ、これハマグリだ。小さいのは持って帰れないよ」
「え? そうなの? なんで?」
晶が、私の収穫した貝を見て残念そうに苦笑いした。
「ハマグリは半養殖っていうか、数が少なくなっちゃって漁師さんたちが管理してるんだよ」
「えー、そうなんだ。せっかく獲れたと思ったのに」
「ねーちゃんざまぁー!」
「本当ムカつく! 死ね!」
「ほらほら、そんなこと言わない」
そういうことなら仕方ない。ツヤツヤのハマグリを砂に戻すことにした。そういえば、去年だってその前だって、獲ったのは食べた量よりも多かった気がする。私たちが獲ったあとで、お母さんたちが戻していたのかな。獲れた貝が一気に半分くらいに減ってしまったから、また掘らなきゃ。
「あ、なんかかわいい」
「お」
「すげー! 動いてる!」
ため息をついて下を向いたら、砂に戻した貝が自力で潜っていた。ゆっくりだけど、もぞもぞ動いて少しずつ隠れていく。
こんな姿だけど、やっぱり生き物なんだぁ。ちょっと感動かも。でも、こういうの見てしまうと、かわいそうで食べられなってしまうよ。
カシャっ
あっ、また!
「やだもう撮んないで、ホント無理だから」
「……まずいな」
「なにがよ?」
撮ったあと、いつもなら写真を確認して満足げに笑うのに、晶がやけに真顔で液晶画面を見つめていた。
眉間にしわが寄って、眉がいつもより凛々しい。まつ毛、意外と長いんだ……って、なに見てるの私!
「弥生、あんま離れんなよ」
「え?」
貝探しを再開して葉月が後ろを向いたのと同時に、晶がいきなり低い声で耳打ちしてきた。
不意打ちとはこのことで、心臓がビクンと飛び跳ねる。不覚にも、その声にドキっとしてしまって、そんな自分に驚いてもいる。
なんでこんなヤツにドキドキしてるんだろ……。
「べっ、別にどこでやってもいいでしょ!」
「あっ、おい」
びっくりし過ぎて、つい、いつも以上に塩で対応してその場から逃げるように離れた。
だって。
ホントにびっくりしたんだもん。
さっきの真顔、低い声。まるで別人みたいだった。なんていうか、なんか、男の人だなって、思ってしまった。
そんなふうに晶を意識してしまったことが嫌で、少しでも早く遠くにいきたくて、思い切り走った。パシャパシャと跳ね上げる水しぶきが、ジャージをまくった腿にかかる。
「待てってば」
晶は私を呼び止めるけど、大きいとはいえまだ小学生の葉月からは離れられないからか、追ってはこない。
「はぁ、はぁ」
気が付けば、ふくらはぎの真ん中くらいまで海水がきている。遠浅なせいかまだまだこんなに浅いけど、晶たちからはだいぶ離れたし、駐車場はもう見えないくらい遠くて、さっき見た人も、いつのまにかいなくなっている。
海の方を向いたら、本当に誰もいなくて、この世界にいるのが自分だけになったみたいな錯覚。
……すごい。
この広い大パノラマの景色に、ひとりきり。ここには今、空と、海と、私しか存在していない。なんだか不思議な気分になった。
うまく言えないけど、自分が自分じゃなくなったみたいな。海の一部になって、景色に溶け込んだような気がした。
時間が止まったような……ううん、時間なんてもともと存在してないみたいな感覚が体を包み込んで、心臓も波のゆらぎに合わせるみたいなリズムになる。
目を閉じて、ゆっくり、だけど思いっきり、深く息を吸い込んだ。潮風が体の中に沁みわたる。
1回、2回……深呼吸する。
すー、はー……。
すー、はー……。
呼吸が整ったとき、いつだったかと同じ白い浮遊感と黒い閉塞感で一瞬だけ意識が遠のいた気がした、その瞬間。内臓まで体を振動させる風圧と耳を劈く爆音が轟いた。
えっ何!? いきなりの轟音と爆風に、しゃがみ込んで耳を塞ぐ。まるで花火か雷がすぐそばに来たみたいだった。気のせいか、焦げたような火薬のような臭いもする。耳の奥に衝撃が残って頭がキンキンする。恐々と顔を上げると、辺りは黒煙にまみれて少し先のほうで炎が上がっていた。
……ここ、どこ? どういうこと?
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