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あの狐のさがしもの(後編)

参・おっさんとポニーテール

目的の旧取水施設は広い疏水公園の中にあり、那須野が原の開墾の礎となった施設。現在はその役目を終えて、木々に抱かれひっそりと佇んでいる。すぐ近くには現役で那須を潤す西岩崎頭首工も見える。鉄筋の赤が青空と緑の山々に囲まれ、良く映えて美しい。

翔利たちが着くと普段は川底が見えるほど透明で穏やかな那珂川が、台風の影響で濁った水を貯え、轟々と唸りをあげていた。水位も、プリントの写真にあるよりかなりあがっているようだ。

「ああ、懐かしいわね。私が見たのは真新しくて草木もこんなに茂っていなかったけど、間違いなくここよ」
「そういや、チビの頃は父さんの車でよく来てたなぁ。着替え持って川遊び。こんな台風の後じゃなけりゃ、すっげー綺麗な水なんだぜ」
「そうね。とても澄んだ美しい川だったわ」

旧取水施設は外国の要塞を思い起こさせるような石積みの建造物。今時のコンクリート造りとは違って、どこか幻想的というか、ここから異世界にでも行けそうな雰囲気が漂う。

「なんか、ちょっとカッコイイな。映画とかに出てきそうだ」
「中、入ってみる?」
「え? できるの?」
「もちろん」

片側の口角をあげて、玉藻が得意げに両手を出す。それを見て納得する翔利。玉藻が手を叩くと、翔利は再び圧縮されたような感覚の後、暗闇に体を浮かせた。

「何も見えないんだけど」

闇の中に水音だけが響く。

「移動はできるけど、明かりは無理ね。しょうがないわ、戻りましょ」
「あ、スマホなら」

翔利は思い出したように腰のポケットからスマートフォンを取り出した。ボタンに触れると、気休め程度だが奥へと続く一本道のトンネルが姿を現した。途端、けたたましい鳴き声と羽音が背後から襲い掛かり、翔利は無我夢中で払いのけた。

「わああっ! なんだ!?」
「翔利、ただのコウモリよ」
「いやコウモリ普通に嫌だよ! ああでも焦った。化け物でも出たかと……って、もう出てるか」
「なによその目」

鳴き声と羽音は突然の明かりに驚いたコウモリだった。襲い掛かってきたというよりは狭い空間で飛び回ったというだけだろう。安堵した翔利はコウモリなどよりも恐ろしい伝説の化け狐と行動を共にしていることに気づきクスクスと小声で笑っている。

「誰か、来たんですか?」
「わあっ!」

そんな小さな一難が去ったばかりだというのに、トンネルの奥からいきなり男の声がした。大人の、父親くらいの年齢の声だと感じた。そういえば確かに、何か気配を感じる。

「おっさん、こんなとこで何してるんだよ? 浮浪者?」

声のする方へ、翔利が問う。

「いやあ、迷子みたいなもんです。ここから出られなくなってしまってね。外へ出るなら、連れてってくれませんか?」
「翔利」

男との会話を、玉藻が低い小声で止めた。

「どうしたの?」
「あいつ、人間じゃないわ」
「え」
「こんなところにいて、私たちと話が出来てる時点でおかしいと思いなさいよ」
「あ」

確かに、普通の人間には見えないはずの二人を認識して、話までしているのはおかしい。人間でも相当珍しいし、なによりこの水と石壁だけの暗がりに人間がいること自体がまずありえない。

「あんた、何者だ?」
「ですから、迷子なんですよ。どこから来たのか、どこへ行くのか、自分が何者なのかもサッパリで」
「ふん、悪い気は出していないようね」

翔利は玉藻が神経を尖らせるのを感じた。暗く寒い空間に、痛みのような凍てつく空気が張り詰める。

「おかしいわね。魂の情報が見えないわ」
「どういうこと?」
「魂の情報はね、翔利みたいな霊体なら、普通はくっきりと見えるのよ。あやかしも原理は同じ。魂が古くても、よーく見ればちゃんとわかるはずなの」

この異様な空気は、魂の情報を見るために玉藻が妖力を使っているせいのようだ。玉藻が少し息苦しそうな、上ずった呼吸をしている。

「とりあえず、姿を見せなさいよ」
「あ、失礼しました」

ぼう、っと、何もない空間にモヤがかかり、それが次第に濃くなるにつれ人の姿を現した。想像していたより若い感じだったが、それでも大学生くらいというところか。長めのスポーツ刈りのような赤茶けた髪とややゴツめの輪郭や体格が体育会系風味を醸し出していて、言葉遣いとのギャップを感じた。男も翔利たちと同じように宙に浮かんでいるが、体が大きいせいか窮屈そうに屈んでいる。

「なんだ、おっさんかと思ったら結構若いんだ」
「君たちが若すぎるんですよ。おっさんと言われるのは悲しいです」
「記憶喪失の身元不明魂がいっちょまえにショックとか受けないでほしいわね」
「確かに。見た目年齢より実際の方が老けてるかもしれないもんな」
「ぐっ……それは否めませんね」

男が一本取られたという風な顔で苦笑いした。

「なあ玉藻、そんなことより」
「え? ああそうね。そうだったわ。ここにもないわね」
「そうか……じゃあ長居は無用だな」
「そうね、次はどこかしら」
「とりあえず、ここじゃ暗くてプリント見れないし、やっぱり俺んちの方に行きたいんだけど」
「いいわよ」

玉藻が手を叩こうと両手を前に出す。と、男がその手を強く掴んだ。

「なにするのよ」
「あ、いや。僕は連れて行ってもらえるのかなーと思いまして」
「連れて行って、私になにか良いことがあるのかしら?」
「なにぶん記憶がないので、あるかもしれないし、ないかもしれないというところです」
「お話にならないわね」

ヘラヘラとこめかみを掻きながら男が言うと、玉藻はその手を振り払って移動に入った。刹那、人影は消え、トンネルの中には玉藻が手を叩いた音だけが残っていた。

***

「ちょっと、どういうことよ」
「おっさん!」
「いやぁー、ははは……」

移動したのは二人だけのはずだった。しかしなぜか男も一緒について来ていた。おまけに景色がおかしい。まるで世界と自分たちが隔てられているかのような、そんな遠さを感じる。移動してきたのは自宅近くの蛇尾川、つまり那珂川と同じく増水して茶色い濁川のはずなのに、隔たりの向こうの川はなんでもない日の、水無川だった。

「……ここ、本ハザマね」
「本ハザマ?」
「私たちがさっきまでいた階層より上の場所よ。極楽の入口ともいうわね。ここより上の世界には苦がないの。だから台風も雷も地震だってないのよ。川があんなに綺麗なのはそのせい」
「どういうことだよ?」
「私の術じゃないってこと。もっと上級の、精錬された魂の術でなければ来られない所なの。あなた、本当に何者なの?」

玉藻が男を睨むと、男はまたヘラヘラと笑って言った。

「僕にも何がなんだか……あはは。置いていかれたくないって、思ったんですよ」
「思ったことがそのまま……ね。まあいいわ」
「いいのかよ……本当にいい性格してるよな」
「一応確認するけど、褒めてるのよね?」
「もちろん!」
「感情がこもってないわね」

小石が敷き詰められた水のない河原に着地すると、玉藻はオレンジ色のドレスの裾を整えると、すんと胸を張ってみせた。河原は所々に野草が茂り、川岸のあたりには咲き始めのコスモスがちらほら見える。まだ穂の広がらないススキも秋を待って伸びていた。

「こんなに水がない川が、あんな風になるなんて思わなかった」

歩きながら、しみじみと翔利が台風の日のことを振り返る。翔利はあの日、学校まで迎えに来た母親と車の中で些細なことから口論になったのだ。車がなければ帰れないような天候で、仕事を持つ母親は会社を早退してこなければならず、そのことをため息まじりに愚痴られ、それなら歩いて帰るからと信号待ちで車から飛び出した。

川の手前で家までは橋を渡れば五分ほどの場所だった。ここからなら余裕で帰れると思った。売り言葉に買い言葉の形で、母親の車は翔利の横を飛沫をあげて通り過ぎた。暴風で、傘はまるで役立たずだった。怒りに任せてずぶ濡れのまま橋まで歩いて、靴の中の水を一旦こぼそうと、橋の手すりに手を掛け片足を上げたとき、突風にあおられバランスを崩した。

降り続いた雨のせいで、水無川のはずの蛇尾川は溢れんばかりの泥水を湛え、何もかもを飲み込む勢いで黒く渦巻いていた。手すりの横側はガードがなく、よろめきを立て直す間もなく翔利の体は川に投げ出された。泳ぎは得意なはずだったが、そんなものは何の意味もなかった。何が起こったのかも理解できぬまま、死ぬかもしれないと恐怖を感じる時間さえなく、ざらついた苦い泥水の味を最後に記憶が絶えた。

「自然の災害って、なんでいつも予想外なんだろな。突然だったり規模がでかすぎたり」

誰に向かって言うでもなく、翔利が呟いた。

「自然は、人間のことなど考えてないもの。山に雨が降れば、海に向かって流すだけ」
「そう言われるとちょっと納得だな。庭に水撒くときに俺らがアリの巣なんて気にしないのと同じか」

翔利が言うことに玉藻が頷く。アリという生き物の存在を知っているだけまだ配慮があるかもしれないが、自然と人との関係においてはそれすらない。木くずを流すことと人を流すことになんら違いはないのだろう。

「だけどなぁ、地球規模で言ったら大したことなくても、やっぱり人が死んだり大怪我する災害は嫌だなぁ」
「そうね。戦も嫌い。人間同士が戦って死んでゆくのを見ているのも辛かったわ」
「死ねばいいとか言うくせに?」
「言葉のあやよ。でももう言わないわ。ちょっと呟くだけで誰かが死ぬなんてごめんだもの」
「玉藻は本当に人間が好きなんだな」

その好き故に災いとなった自分を、人を寄せ付けない殺生石に隠すほどに。

「ええ。好きよ。だって他にいないじゃない? こんなふうに着飾ったり、歌や演奏を楽しんだり、美味しいもの食べたり。羨ましいわ」
「そんなの普通の事だと思ってたけどな」
「少なくとも狐にはできないことよ」
「確かに」
「あ」

ただ側で話を聞いていた男が間抜けな声を上げた。視線の先は空を指し、白く大きな鳥が二羽、飛び立っていくのが見えた。

「ああ、シラサギだよ。この辺は多いんだ。おっさん何か思い出した?」
「いえ、とても大きくて綺麗だなと」
「そうだね。羨ましいといったら、俺は鳥がいいな」

翔利が腕を高く伸ばして、空に向かって大きく背伸びする。

「どうして?」
「人間は、空を飛べないから」
「じゃあ翔利が神様に願うとしたら次の世では鳥になりたいって言うのね」
「あー、そこはやっぱり人間がいいなあ」

冗談交じりに玉藻が訊くと、照れくさそうに笑って翔利が答えた。翔利が動物になりたいと思うのはたいてい、宿題や試験勉強が嫌で猫になりたいだとか、学校まで自転車で行くのが遠くて面倒だから鳥になって飛んで行きたいだとか、そういう時だからだ。

「でしょ。私も人間になりたいわ」
「玉藻の願い事はそれなのか」
「そうよ? 言ってなかったかしら」
「初耳。なんとなくそうじゃないかとは思ってたけど」
「ちなみに空を飛びたいだけなら今の翔利ならできるわよ」
「え、ああ、そうなのか」

そういえばさっきも浮かんでたな、と、意識を上の方に集中させると、体がふわりと宙に浮いた。昇ろうと思えばいくらでも高く行けるようだ。地上の二人がどんどん小さくなる。空から見下ろすと、よく洗われた清々しい小石の平原がどこまでも長く続いているのがよくわかる。川を越えた先に低めの小さな山を見つけ、そのまま視線を流すと翔利の家があった。その近くは家屋が集まっていて、周りには田畑がいくつも連なっている。そしてその先にまた家屋が集まって、そうして大きな街を形成している。さっき見た那珂川の取水施設のような大きな工事がなかったら、この辺り一帯は何もない荒れ野だったのかと、ふと、そんなことを思った。

「そろそろ降りてらっしゃいよ、一応それだって妖力を消耗するのよ」
「え? これ妖力なの? 早く言ってよ」

自分に妖力があるなどとは全く考えてもいなかった翔利は、慌てて空中散歩を取りやめて地上に戻ることにした。

四・いとなみと那須野が原

雨の匂いがする。現世の人間がいない本ハザマでは翔利の家族の様子がわからないため、三人は改めて玉藻の力で翔利の家近くを訪れた。まだ日が落ちる前なのに、辺りは低い雨雲に覆われて薄暗くどんよりとしていて、時折、杉の林が風でざわざわと揺れる。

「俺は……いないのか」
「ということはきっと病院ね」
「なあ、俺の魂がこうなってるってことは、体のほうは意識不明の重体みたいな感じなのか?」
「私にきかれても、そこは詳しくないのよ」
「おっさんは……わかるわけねーか」
「すみません……」

壁をすり抜けて伺った家の様子は、あまり良いものではなかった。声が聞こえないので会話はわからなかったが、そもそも両親ともに口数が少ない。子供が川で溺れて危険な状態だとすれば、この通夜のような静けさも当然かもしれない。ただ淡々と、母親が夕食の用意をし、夜勤のために起きてきたであろう父親が寝ぐせ頭のままテレビを眺めている、それだけの光景だった。テーブルに一人分の食事を並べると、翔利の母親がマンガやDVDを紙袋に詰め込んで家を出た。全て翔利の好きなものだ。母親が駆け足で乗り込んだ車が近くの総合病院の方へと発進したのを窓から見送ると、自分を見舞いに行くのだと翔利は悟った。

「ごめんな、玉藻。時間とらせちゃって。とりあえず早く探し物を見つけよう。俺も早く体に戻って母さんに謝らなきゃ」
「ええ。それが良いと思うわ」
「さあ、次はどこに……なあ、あれって」
「どうしたの?」

次の行き先を決めようかと翔利が向き直ると、テレビに天気予報が映し出されていた。先日この辺りで猛威を振るったのとは違う別の大型台風が迫っていて、今夜が接近のピークだという説明文に目が釘付けになった。

「また台風が来るのね」
「そうみたいだ」

映像がレーダーマップから切り替わり、被害の大きかった地域の中継になった。那珂川の下流で防波堤が決壊して、住宅街が一面泥の池と化した映像。言葉を失った。まるで大きな津波が起きた震災のときと同じだった。火の手が上がっているわけじゃない、ただ川の水が溢れて街に流れ込んでいるだけだ。そのたかが水が、風呂に浮かべたアヒルのように自動車をプカプカと浮かばせ、家を押し流し、鉄柱をなぎ倒して人の営みを浸食していく様を、なすすべもなく見ていることしかできない。体の七十パーセントは水で出来ているというのに、人間は水に対してあまりにも無力だ。

「ひどい有様ね……」
「神様なんていないんじゃないか、こんな残酷ってねーよ」
「すみません……」
「なんでおっさんが謝るんだよ」
「あ、すみません、なんとなくです」
「真面目な話してるときに締まらねえおっさんだな、全く」

那珂川も蛇尾川も許容量いっぱいの濁流で、下流では既に甚大な被害が出ているというのに、ここにまた大雨が降る。それがどういうことかは、中学生の翔利にも簡単に理解できる。なんとか規模が弱まってくれるかもう少し南を通過してくれるかでないと、今度はこの辺りでも死人が出る。そう確信した。

「今夜は様子を見た方が良さそうね。探し物はまた晴れたらにしましょ」
「それがいいですね」
「……うん」

翔利は冴えない顔色を隠すように俯いて小さく頷いた。

***

時が進むにつれ、雨風が強まってきた。家族のいない自宅で台風がそれてくれるのをじっと願って待つ時間は、とても長く感じた。九時過ぎに母親が帰宅したが、浮かない顔で食事の片付けを済ませたあとは寝室に行って出てこなくなった。なにもする気になれないのだろう。父親が出かけるときにテレビを消して行ったのでそれ以降の情報が入らない。翔利は川の様子が気になって仕方なかった。

「俺、ちょっと見てくる」
「だめよ。これだけ大きな台風だもの。私みたいに流されるわ」

思い出したくないことを思い出し、玉藻はバツが悪そうな目をして翔利を止めた。

「だけど……」
「お願い、ここにいて。この家に結界を張ってるから」
「そんなこともできるんだ」
「あやかしを舐めないでほしいわね」
「じゃあその結界ごと移動するとかは」
「できるわよ。でも妖力の消費がね」
「そうなの?」

ということは、きっと移動するのも何をするのも、わずかでも妖力を消費するのだろう。明日以降の移動もできるだけ効率よくルートを決めて行った方がいいだろう。そんなことを考えた。

「人間が住んでる家は建てるときに結界を張るでしょ」
「ん? あー、もしかして神主さんとか呼んでやったあれのことか。なんだっけ、地……?」
「地鎮祭、ですか」
「そう、それよ。記憶ない割にそういうことは憶えてるのね」
「え、ええ、まあ」

知っているならもっといろいろ話してくれたらおっさんの迷子も早く解決しそうなのに、翔利は何か隠していることがありそうな態度の男が少し、気になった。けれど今はそれどころではないので、問い詰めるにしても台風が去ってからだ。

「とにかくね、そういう結界を土台にすると妖力をあまり使わないでいられるの。でも移動するとなると結界は全部自分の妖力だから」
「なるほどね」

わからないなりにも翔利はなんとなく理解した。と、その時。赤灯を回しながら家の前を通りすぎる車が見えた。消防か、何かしらの緊急車両だろう。翔利は遠ざかるその赤いライトを眺めていたが、雨で滲む景色にやがて消えていくと思われたそのライトは、一定の距離から動かなくなった。おそらく川の辺りだ、そう直感した。

「ごめん、やっぱり行かなきゃ!」
「翔利!」

ドン! と大きな音を立てて、翔利が壁に激突した。翔利は何が起きたかわからないという顔をしていたが、壁に触れるとひりりとした痺れが伝わってきた。

「結界、張ってあるって言ったじゃない」
「中からも出られないのか……」
「バカね。わかったわ、行きましょう」
「いいの!? 玉藻ありがとう!」

呆れたように笑う玉藻の言葉に、翔利が目をキラキラと輝かせた。

弱い結界を張って空中を移動すると、消防車や自警団のトラックが連なって川の方へ向かって行くのが見えた。見えてきた川は今にも溢れそうで、土手の低い場所に男たちがリレーで土嚢を積んでいるようだ。

「嘘だろ……もうヤバい予感しかねーよ」
「あんなの、土台が崩れたら意味ないわ」

見ると、土嚢を積んでいる場所より少し上流が湾曲していて、そのカーブを通る濁流が川縁を叩きつけて波が上がっている。直進したい水の性質が、曲がることを拒絶しているのだ。

「土嚢なんかより、あそこがもたない……」

震える唇で、翔利が呟いた。同じように危険を感じたらしき男たちが土嚢をどさどさと無造作に放り投げて車に乗り込んでゆく。諦めきれずに土嚢を整えようとしている人を、別の者が引きずるようにその場から剥がして車に押し込めていた。限界が近いのは、誰の目にも明らかだった。

「母さん! 母さん避難させないと!」

我に返ったように翔利が叫び、結界を引きちぎりそうな勢いで家の方角に引き返そうとした。

「無駄よ! 翔利が行ったってお母さんは気付かない!」
「妖力使えば触れるんだろ!? 俺だってそれくらい!!」
「たかが人間の抜けたて魂にそんな妖力あるわけないじゃない!」
「なくてもやるんだよ! じゃなきゃ母さんが!」
「ダメえ!!」

埒のあかない問答が続き、玉藻の張った結界を翔利が突き破って出て行ってしまった。

「っ……なんで……なんで結界……」
「二人が結ばれているからでしょうかね。あなたが張った結界をあなたが解けるように、彼もまた解けるのかと」
「ああそうだったわ、私たちくっついてるんだった……って、その話したかしら?」
「あ、いえ、お二人のやりとりでなんとなく、です」
「そう……? って、そんな場合じゃないわ! 追いかけなきゃ」

玉藻と男は、雨風が吹きすさぶ夜闇の中を必死で飛んでゆく翔利の姿をすぐに追いかけた。

***

結界に消耗した玉藻が翔利の家に着いた時、翔利は既に母親の枕元に着いていた。母親を揺り起こそうとして、何度もすり抜けている最中だった。ベッドの中の母親は少しやつれた顔で深い眠りについている。

「くそっ、なんだよこれ! ちっとも触れねえ!」
「翔利……」
「母さん! 起きろ母さん! ここにいたら危険なんだ!」
「翔利、無理よ」
「うっせー! 頼むよ母さん! 起きてくれよ!」
「玉藻さん! 翔利さん! 川から水が!」

涙声で必死に叫ぶ翔利に、家の外から二人を呼ぶ男の声が飛び込んできた。

「なんですって!?」
「母さん! 母さん!」

空から様子を見ていた男が、川の氾濫を告げた。玉藻が空へ駆けあがると、蛇尾川の支流である熊川が先に限界を超えていた。玉藻が辺りを見回すと、熊川だけでなく、用水路も溢れ、田畑はもう大きな湖のようになっていた。

「こんな……」

更に上空へ昇った玉藻は、目を疑うような光景に思わず口許を覆った。氾濫していたのは、熊川だけではなかった。那珂川も、箒川も、至る所から水が溢れはじめていた。これだけの短期間に台風を二度も迎えるのは、やはり無理だったのだ。もう道路なのか畑なのかわからないような道を、高台へと逃れるように進む車の列があちこちで渋滞している。あの車が溺れる蟻のごとく無力に流されるのも、時間の問題だろう。

同時に玉藻が目にしたのはそれだけではなかった。大地に、星を落としたように街明かりが点々と灯っていた。人間の営みだ。玉藻が都から逃れてこの地を駆け抜けた時は、ただの荒れ野原だった場所に、営みが広がっていた。それはかつて、この地に水を引き、開墾して築いた土地に酪農や農耕を興したあの時代があったからだ。そしてその礎に人々が集い、暮らし、やがてここまで大きく命の裾野を広げてきた。その命の営みが玉藻の眼下にキラキラと輝いていた。

「見つけた……」

そう呟くと、今にも濁流に飲み込まれそうな街を見下ろし、玉藻は唇をきつく結んだ。

「翔利、私わかったわ。キラキラしていて、とても力強くて、だんだん大きくなるもの。待ってて、私ならできるから。だからお母様も大丈夫……」

玉藻が呟いて目を閉じ、なにかまじないのようなものを唱えると、空に浮かぶ玉藻の体がほのかに白く光りだした。それは次第に強い光となり、太陽のような眩しい金色の狐となった。

「なんだこの光……!」

窓から不意に差し込んできた光に、翔利が驚きの声をあげると、側にいた男がクスリと微笑んだ。

「見つかったんですねぇ、探し物」
「え?」

翔利が窓から外を見ると、そこには信じられない光景があった。川の泥水が巻き上げられるように空に吹き上げていたのだ。それはまるで無数の龍が空へと昇っていく様だった。

「見つけたって、なんでそんなことおっさんに分かるんだよ、それにこれ、もしかして玉藻がやってるのか? 取水施設壊すどころの妖力じゃないだろ! こんなことしたら玉藻が死――…………」

言い終わる前に翔利は強い眠気のようなものに襲われ、遠ざかる意識の中で誰かの声を聞いた。

『心配で見に来てしまいましたが、杞憂でしたね。大丈夫。玉藻さんの魂は僕が預かりますから。それにしても玉藻さん、願い事が多すぎですね』

窓の外が元の闇夜に戻る頃には、翔利の意識も静かに暗く閉ざされた。

五・おとなりとジェラート

翔利が川に落ちた日から、半月ほどが経っていた。病院のベッドで目覚めたのは川に落ちた日から五日が過ぎたあとだった。母親は置き去りにして先に帰宅したことで自分を責め、食事も喉を通らず痩せこけていた。すぐに謝りたいと思った翔利だったが、ずっと寝たきりだったせいか思うように声が出ず、ただただ涙を流すのが精いっぱいで、夜になってやっとその想いを伝えることができた。それから検査や体力の回復などに約一週間を費やし、ようやく退院と相成った。

「そういえば昨日、うちの隣に家族で越してきたって人が挨拶にきたぞ」

仕事で来られない母親の代わりに来た夜勤明けの父親が、慣れない手つきで荷物をまとめながらそんなことを言ってきた。

「お前と同級生の子もいるって言ってたな」
「へえ」

翔利は母親が買ってきてくれたマンガの最新刊に夢中で、生返事だ。

「明日からは一緒に通えるな」
「え、まさか勝手に約束したの? 面倒くせえ」

ナースステーションで挨拶を済ませ、病院を後にする。退院といえば医師や看護師が玄関まで見送りに来たり、花束をもらうイメージのあった翔利にとって、現実の退院というものは何とも味気なく感じられた。二度の台風では低く厚い雲に覆われていた空も今朝は高く澄み、知らない間に季節はすっかり秋へと移り変わっていた。駐車場のすぐそばにある空き地の草の上を赤とんぼが飛び回っている。その様子を見て、あの台風の夜、自分も確かに空を飛んだのに、あれは夢だったのかと、玉藻と過ごした不思議な時間に思いを巡らせた。

家に着き、テレビの前のソファに腰かけると、翔利はリモコンのスイッチを押した。平日の午前中、翔利が興味を持てるような番組はないと分かってはいたが、入院中にはテレビがみられなかったので、帰宅したらまずテレビだと決めていたのだ。番組表を眺めていると、『奇跡の竜巻、各地で相次ぐ』という見出しが目に入った。

「もしかして……」

翔利がチャンネルを合わせると、二度目の台風で見たあの光景の映像が流れていた。栃木県の那須野が原一帯を中心に、増水した川の水が空へ昇っていく不思議な現象が起きたと番組の司会者が話している。気象を扱う専門家が海上でよくみられるウォータースパウトと原理は同じだと解説しながらも、河川で、しかもこれほど多発するのは観測史上初ではないかと驚き興奮しているようだった。この現象のおかげで危険水域に達していた地域が大水害を免れたことで、奇跡の竜巻と呼ばれているようだ。

「あの竜巻! 玉藻は本当に……」

ソファに沈んだ体が飛び跳ねるように立ち上がり、そのままの勢いで翔利がリビングを出て玄関へ向かった。

「おいおい、退院したばかりなんだから、あんまり出歩くなよ」
「大丈夫!」

翔利が向かったのは自身の命が危険に晒された蛇尾川の橋だった。ここに来れば玉藻にもう一度、会えるような気がしたのだ。まだ少し水の残る蛇尾川は、澄んだせせらぎに川底の小石を透かしてきらめいていた。けれど玉藻の姿はなかった。当然のことだ。

「ねえ君、この辺のひと?」

何に期待したのかと、自己嫌悪で橋の手すりに顔を埋める。と、その時、風鈴を鳴らしたような澄んだ甘い風が翔利の鼓膜を震わせた。この声、聞き間違えるもんか。翔利が胸を躍らせて振り返ると、そこにいたのは色づきはじめたもみじのようなオレンジ色のワンピースを着た玉藻だった。

「た……!」
「私ね、昨日こっちに越してきたの。すごくいいところね! 景色はいいし空気も綺麗で、お水もお肉もお野菜も最高に美味しくて。そうそう、昨日はね、荷物が片付かないからって千本松牧場のジンギスカンを食べに行ったのよ。食べ放題を侮ってたわ、というか羊のお肉、初めてだったの! こんな美味しいお肉があるなんて知らなかったし、ソフトクリームもめっちゃめちゃ濃厚でね、おみやげたくさん買いすぎちゃって、うふふ。アイスとチーズケーキとかそんなので冷蔵庫いっぱい! 途中にも素敵なお店がたくさんあったから、観光客じゃないけど週末はしばらく那須観光ね。あとね――」
「ストップ!」

止まらないマシンガントークを、いつかと同じように翔利が遮った。よく見ると、瞳の色が濃い茶色をしている。玉藻は金色だった。翔利の事を初対面と思っている様子も、目の前にいるのがあの時の玉藻ではないことを物語っていた。けれど、お喋りが好きで自己紹介もそこそこに脱線する癖は変わっていないなと、翔利はクスリと笑みをこぼした。

「俺、翔利。よろしくな」
「珠萌よ。よろしくね」

たまも……。確かに今、たまもと名乗った。翔利の胸が熱く、強く、鐘を打ち鳴らす。

「そうだ、牧草ジェラートっていうのがあるんだけど」
「なにそれ!? すっごいパワーワードじゃない? 本当に牧草なの?」
「俺も食べたことないんだ。今度確かめに行こうと思って」
「行きたい! めっちゃ気になる! 食べてみたい! ねえパパに車出してもらうから、一緒に行こうよ! ね!」

そう言って、珠萌は翔利の腕に強く抱きついた。初対面のくせにこの馴れ馴れしい態度。間違いなく玉藻だと確信した翔利は、嬉しそうにやれやれと大きなため息をついた。

二度も大きな台風に見舞われても、川沿いの水田では稲穂が陽を浴びてキラキラと輝いている。秋風と太陽で穂が乾いたら収穫だ。狐の尻尾のようにふさふさと揺れる金色の稲穂が、その時を今か今かと待っている。田畑の上を飛び回る赤とんぼの群れは、人間を怖がることを知らない。側を通ると案山子だとでも思うのかすぐに集まってくる。その中の一匹が、珠萌の髪にとまった。それはまるで、明治貴族の装いを真似た玉藻の赤いリボンのように見えた。


※画像:PixAI+Photoshop

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