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本日も弱音
私は端的に言うとメンタルの弱いタイプの人間だ。他人のマイナスな感情を勝手に吸ってマイナスになってしまいがちなところがある。
イダの活動に対して何か対価?というか数字とか返す?行為をしていない消費するだけの人間だからさ、いつも申し訳なく思ってしまう。
— しなしなおしお (@4747o4o_R4s) June 3, 2024
昨日、久しぶりにメンタルが急降下してしまった。新社会人になってからはここまでがっつりと下がってしまうことがなかったから少し驚いているのだけど、大学生の頃の何かに追われて死にたくなっているのを思い出してやっぱり変わらないなと感じている。
@no_TL
— しなしなおしお (@4747o4o_R4s) June 3, 2024
ここ数年でただコンテンツを何も考えずに消費することが怖くなってしまった。
対価を支払わないでコンテンツを消費する者は倫理的でないみたいな縛りが勝手に自分のなかであって対価を出せない者は好きになる権利がない、存在価値がないという自己暗示のもとに生きてしまっている。
こういう時にいつも考えてしまうのは自分が何者でもないからこそ何かを生み出している人を消費していることが怖い、と言うことだ。自分の中で「推しコンテンツ」となったら何某かの課金、グッズ購入、二次創作などを行わないことには一方的に消費するだけで「推し」と言えない気がしている。正直、それは強迫観念でしかないのだがどうしてもこれだけはやめられない。にじさんじに浸かった時に初めて「加減」を覚えた。リアタイ勢、アーカイブ勢、切り抜き勢がいてボイス購入をしたりグッズを買ったり買わなかったりメンバーシップに入る入らないなど幅が大きい。今までの「すべて通らなくては」の強迫観念を少し捨てられた。
それにしても私は「消費」と言う言葉が怖い。大学は自分が当時好きだった文豪コンテンツの影響もあり、文学部の中でも割とジャンルを狭めて決めた。大学で学んでいくうちにそれだけじゃない面白さを学んだけれど、最終的に卒業論文では初志貫徹、と言うことでそのジャンルをテーマに設定した。それに関する論文を読んでいくうちに自分がきちんと「分析」「検討」できているか不安になっていった。そんな不安なまま進めていたせいで、提出の数日前にとある研究者の方が言っていた「都合のいいように消費しているだけ」という言葉が頭から離れなくなってしまった。
どのジャンルにおいても「都合の良い文脈で自己流に解釈していないか?」「それを押し付けていないか?」と自問自答するタイミングがある。大体そうなると「推していていいのか?」「降りようかな」になってしまう。元気のいい時に考えるとそれは傲慢だとわかるのだけど、下がっている時にはそれに気づけないからさらに駄々下がっていくのだ。アホらしいけれど。
でも、それを私がいままで生きてきて得てきた価値観を持って分析、検討をして「ことば」に起こしていくことを繰り返していくことでただの「消費」から昇華していくことができるのではないかと思っている。というか、ただの「消費」で止めてしまうと自分が許せなくなってしまうから。そのためにもやはりことばは重要でまだまだ自分は未熟だ。最近はずっとITパスポートの勉強をしているけれど、日本語検定とかビジネス関連じゃないところも少しずつ取組んでいきたいとは思っている。まだまだ自分に自信はないけれど、少しでも自分に対する嫌いが薄まるように好きになれるように動いていきたいね。
文劇の観劇前後で善心悪心の鑑賞文()と愛と死の分析をまとめ切りたいです。
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