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自由を抱きしめて

つまらない。

現在、訳あって一つの組織・環境に身を置いているのですが、これがなかなかつまらない。この現状がつまらない訳ではないが、この組織、集団が作り出す閉鎖的な雰囲気がつまらないと感じる。この非常に息苦しい空間がつまらないということである。

私は最近、同世代と関わっていると「彼らは自由を手放しすぎてはいないか」と思うことが増えた。そこで、今回は「自由さ・開放性」という観点からつまらないものを考えてみる。的外れなこと、支離滅裂なことを書いているかもしれない。


自由から逃げる人々

人は自分の行動や思考などが外的要因によって制限されたと感じる場合に「自由」を求めるが、しかし実は本能的に「自由」を嫌っているようにも見える。自由から逃げて、自ら不自由へ向かっているように見える。これは特におかしいことではなく、むしろ不自由である方が人にとって自然な状態であるかもしれない。

多くの人は「自由」に対して魅力的な幻想を抱いているが、実際にはそうではない。人が求める魅力的な自由とは「嫌な状況からの解放」であるが、実際の自由とは「なにも手がかりがない孤独のようなもの」だ。しかし、人はなかなか後者を「自由」だとは認識しない。人には「自由」という観念に対するとらわれがある。

人は生まれながらに制限や不自由さを持って生まれる。例えば、肉体、規則など。そして、ある程度成熟した人が自らに課す制限が認知である。言い換えるなら、固定観念、社会的規範、思い込み、偏見、認知の歪み(スキーマ等)、暗黙の了解など、またそういう人を「頭のかたい人」と表現する。要するに、目に見えない何かを信じてとらわれている人のことである。頭がかたいのは、私たちが想像する中年の男性のことではない。ある程度成熟して認知をする人、つまりほとんど全ての世代における「見えない何かを信じてとらわれている人」のことではないだろうか。きっとその対象となる人は「頭がかたい人」への思い込みがあるため、まさか自分の頭がかたいだなんて思ってもいないだろう。

基本的に集団は不自由である。それは、集団で生存するために社会性・社交性が重要視される場合が多く、そのために自身の思考や行動を抑制する必要があると考えられるからである。
また、社会性を構成する要素の根底には普遍的価値観への理解がある。これは、集団で孤立するのを避け他者と迎合するための振る舞いである。この振る舞いを会得していることは集団で生存することにつながるかもしれないが、個性を排除して「型にはまる」ということにもなり得る。集団社会では、しばしばはまるべき“型”を作って指標とし、共有する。これを社会規範や暗黙の了解という。これに対して信仰的な人は決まって自分のことを「普通」で「正しい」と思い込んでいる。実際には「普通」や「正しさ」、「はまるべき型」など存在しないがそれらに頼って振る舞っている。

人は自由から逃げて徒党を組む。それは、自由であることが不安で、逆に不自由が楽だからだ。「不自由が楽である」という主張に疑問を抱くかもしれないが、「こうした方がいい」「これが正しい」「こうでなければならない」という指標があれば行動の選択が簡単になる。不自由は、強制力が強いほど不愉快になっていくが、その基準が曖昧であればむしろ心地よいのだ。徒党を組めば、その集団の普遍的価値観という指標に従って特定のパターンをなぞることで所属欲求や承認欲求を満たすことができる。彼らは多数派である代わりに自由を捨てているのだ。

よくいう女性社会や、SNS、ギャングエイジなどの実質はこれに似ているように思う。自由から逃げる人々は、他者と違うことで否定されたり、仲間はずれにされたり、またそういったことが頻発する集団に長く所属していた経験がありがちである。つまり、彼らが多数派であることを選択するのは、生存できないこと・排除されることに対しての過度な恐れによるものだろう。集団に所属して生きていく中で、賞賛されたり、罰せられたりすることでその思い込みは強くなり、やがてそれが当たり前の社会を選択していく。オペラント条件付けによる学習をさせられている。


思考のくせと必要性

今、この社会が生きづらいと言われるのは、不自由な人が増えてきているからだと考える。その背景には大なり小なりインターネットの普及による大規模な価値観の共有があるだろう。インターネットまたはSNSが一つの大きな社会として成立するようになったこの社会で多数派から逸脱する思考や行動を披露することは、批判や誹謗の的になりやすく命取りだと考えられがちである。実際に晒し行為などが横行している。こうして集団から排除されることを避けるために人々は不自由を取り入れ、日和見主義的に振る舞っているのはないだろうか。また、インターネットやSNSが身近になることで多様な価値観を取り入れる機会を得るが、人や媒体の性質上、自分の考えに似た意見や共感する意見に注目しやすいため、結果的に取り入れる価値観は偏ることとなる。そして、曖昧だった感覚が他人の意見によって確信させられるような体験をするのである。答えのないものの答えを他人の言葉に任せて、「なんでもいい」を「こうでなくてはならない」とする態度が人を不自由にし、社会を生きづらい場所にしている。本当は、しなければならないことなどほとんどない。言ってしまえば勉強ですら、してもしなくてもいいものである。

「自分で考えられる人が少なくなっている」というが、そうかもしれない。それはその必要性がなく、「自分で考えなくても大丈夫」だからである。しかし、言葉の通りではない。自分で考えなくても人々の間で流行している実体のない言説が伝わってくるし、それを受け入れることでたいていのことが上手くいくと思い込んでいるから自分で考えなくても大丈夫だと考えるのである。こういった環境で育つと、「思考する」というくせがつきにくい。思考のコツや方法がわからない状態になっている。実体のない言説を模倣することの欠点は、過程が不足することだ。たまたま上手くいくこともあるかもしれないが、たいていはそうではない。「就活はこうすると上手くいく」という言説を模倣してもなぜか上手くいかないのは、そこに過程が存在していないからである。知っていることと理解していることの違いが現れる。

例えば、「自分に合わない仕事はやめればいい」という言説がある。しかしこれは言葉の通りではないだろう。私は「仕事をやめてはいけない、なんてことはない」という風に解釈した。その言葉の真意は不明であるが、言葉の意味は表現によって変わりやすいため、流行している言説とはすこし距離を置いて考えてみることが必要だろう。


コンプレックス循環社会

社会的に優位とされる行動、人格、容姿、地位、状況はどの時代も強く提示される。それによって、「どちらでもよいもの」に対して優劣がつけられる。このとき優位に立つものは「求めても手に入りにくいと考えられるもの」が多い。それが欲しい人を分母として、それを持つ人を分子とする場合にその数が小さいほど価値が高いと考えられる。最近ではその優位に立つ対象がSNSの切り取られた日常にある。

どうして「どちらでもよいもの」に対して優劣をつけてしまうのかは、わからない。答えを一つに限定することはできない。

しかし、そこに環境、年齢、経験、知識などの要因があると考えた。
経験・知識が情報の取捨選択をすると仮定して、SNSの普及によるユーザー年齢層の低下、まだ経験が少なく余白の多い頭に「強いコンプレックスを持つ人の情報」が流入されることで認知の歪みが発生し、劣等感を誘発させる。そしてSNSにて、優越コンプレックス(自分が優れた人間であるかのように見せかけることで劣等感に対処する態度)を発信させる負の循環が起きているのではないか。SNSの性質上、劣等感を解消せずとも承認欲求や優越感を解消させることが可能であるため、そういった環境下で発生した劣等感は劣等コンプレックスに変化しやすい。さらに、発信者の情報は発信者が限定することができるため、優越コンプレックスによる発信が行われやすい。

キラキラしたSNSもジメジメしたSNSも、経験未熟な層にとっては認知の歪みの温床となると考えることが可能である。こうして、人は不自由にとらわれていくのではないだろうか。


結局なにがつまらないか

最初に閉鎖的な集団が作る雰囲気がつまらないと言ったが、その感想は変わらない。表現を変えると、全体主義・日和見主義的な振る舞いを推奨し、意見や感想が統制されている・統制しようと考えている、優位な他者や事象を模倣して私と比較しようとする他者、他者の劣位性を指摘する他者がつまらないのだ。「私は普通」で「お前は変」という認識を譲らず、優位に立とうとする不自由な他者がつまらないのだ。こういった開放性のない人には意外性も、秘匿している魅力も、思慮深さも感じられない。「普通はこうだ」「これは変だ」という閉鎖的態度には独自性も創造性も新規性もなく、つまらない。

不自由な人は自由な状態を維持するための能力や方法がない。結局、不自由に閉じこもり、異分子を排除しながら同じ不自由さを持つ人と関わっていくのだ。

すこしだけ、
自由に歩み寄る勇気を持ってほしい。
自由に歩み寄る勇気を見守ってほしい。

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