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好きな監督

好きな監督という概念に出会う。
正確に言えば「監督語り」というもの。
私には好きな映画はあっても好きな監督はないことに気づく。
(一方で、好きな作家はいる。もちろんドストエフスキー。)

ビリー・ワイルダー監督作の『サンセット大通り』をまさに見ている。
おばさんに愛されるキモさ、もっと言えばほとんどの女性に愛されるキモさというものをそのまま書いているように思う。
私は面食いなのだろうか。女性の感情(男性に愛されることはこれまでなかったからだが)がひどくつらい。皆これを顔で免責しているのだろうか。
世の中には感情を人に向けない女性も存在している。

そこから考えるに、私の好きな監督はマイケル・マン以外に思い浮かばない。俺は男臭いのか?そんなことはない。ただ多くの映画に共感できない理由、女子のいない原風景で育ったことからか、男女ドリブンのドラマというのは心に響かない。
結局心を動かされるというのは、映画という媒体を通してリアルを描くこと。リアルが心を動かすんだ。現実が。

コラテラルがベスト。孤独を描いているから。
男も結局感情を処理するために恋愛しているのだと思うのだが、それに気づかないのだろうか。女性と男性で、エロを見た時の脳の動きは変わらないらしい。

話を戻すと、コラテラルは感情を処理するために男がつながってしまう物語だ。トムクルーズは友達がいなくて、孤独に死ぬことを心配している。父親を子供のころに殺した。ジェイミー・フォックスは社会に挑戦するのが怖くて、踏み出せていない、現実から逃げているタクシードライバー。

トムクルーズとジェイミー・フォックスは友達になってしまった。2人はラストのシーンで撃ち合いをするが、トムは負けてしまう。友達になってしまったから、孤独でなくなってしまったので。
ジェイミー・フォックスは社会に踏み出せて彼女もできたが、それは商業的に重要なのであって、映画の結末を示すのみ。根本的には孤独というものを描いた映画だ。脱却可能な孤独について。このあり方の孤独を示すことがマイケル・マンの男性的なところだ。常に前進するのだ。

男は本当は孤独が怖くて恋愛をしているのだと思う。学生は孤独じゃないからさ、基本的には。俺の周りはそうだった。いつも疑問だったので書き記しておく。もちろん俺はとっくに学生じゃないし、足を洗っている。思い出しただけ。


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