Day by Day 2023-09-12 終わらない『トレント最後の事件』
ベントリー読みは匍匐前進中。どうしても気になって、いろいろ確認したり、調べたりしてしまうので、そうとんとんとは捗らない。
「あなたはたしか、バナーさんでしたね」
とトレントがいった。(略)
「ぼくは、カルヴィン・C・バナーといいます。(略)あなたはたしか、トレントさんでしたね」とかれはつづけた。
何でもない行文に見えるが、おおいに引っかかった。「たしか~さんでしたね」という呼びかけは、以前会ったことがある、でも記憶に自信が持てない、という時に使う言いまわしである。ところが、この二人は絶対に初対面なのだ。トレントはついさっき、この屋敷を訪れたばかりで、まだ一握りの人間にしか紹介されていないのだから。
'You must be Mr. Bunner,' said Trent.
……………(略)…………………
'Calvin C. Bunner, at your service,' amended the newcomer, with a touch of punctilio 'You are Mr. Trent, I expect,'
he went on. 'Mrs. Manderson was telling me a while ago.
というように、原文を見れば、やはり初対面らしい言葉を交わしている。正しく訳すなら、
「あなた、バナーさんでしょう?」とトレントは云った。
(略)
「あなたはトレントさんですね? さきほどマンダーソン夫人からあなたのことをうかがいましたよ」
である。お互いに、話には聞いていたから、ははあ、これが例のあの人だな、と確信して言葉を交わしたのだ。must beとexpectが使われていることを無視するから、なんだこれは、バナーなんて人間はここではじめて登場した人物じゃないか、どういう意味だ、と考え込んでしまう。読者の思考の流れを遮るのは、翻訳者がまず第一に忌避すべきことだ。
もう一か所、無茶苦茶に引っかかったところがある。
「あのとき、むりなわたくしの頼みをおききくださって、もう一度、お礼を言わせていただきますわ……つい、あまえてしまって」
彼女は事実、疲れたような弱々しい微笑を浮かべて、おかしな言葉で話をおえた。
「おかしな言葉で話をおえた」というが、「つい、あまえてしまって」のどこかがおかしいのか、さっぱりわからない。原文を確認した。
Thank you again for helping me when I asked you . . . . I thought I might,' she ended queerly, with a little tired smile;
queerlyはたしかに、strangelyみたいなもので、「奇妙に」だけれど、コンテクストを考えると、少しずらして訳すべきだ。
I thought I mightという言葉にはqueerな点はまったくない。「わたしもうなんだか――」と、あとにつづくはずの動詞やら必要なら目的語やら補語やら何やらを全部呑み込み、話を途中で切ってしまっただけだ。つまり、途中で止めたことを指してended queerlyと云っているだけである。
「あまえてしまって」も動詞がわからないのにそう訳すのはあまりにも行き過ぎで、誤訳というか訳者の創作になってしまっている。わたしの想像では、「気分が悪くて卒倒しそうでしたの」ぐらいのことを云おうとしたのだと思う。そこも変えて訳し直すと――。
「あの時は助けていただいてどうも恐れ入ります。改めてお礼申し上げますわ。わたくし、もう、あの時はなんだか――」彼女は途中で言葉を飲み込み、疲れたような笑みを泛べた。
こういうことが頻繁にあるので、昔の翻訳は原書を手元に置いて参照しながらでないと読めないのだ。しかし、こんなに立ち止まってばかりいるなら、いっそ、翻訳はバイパスしてストレートに原書を読めばいいようなものだが、立ち止まらないかぎりは、当然、日本語を読むほうが数倍楽だし、こういう読み方のほうが、どちらかの言語で真っすぐ読むより、複雑な頭の使い方をするから、脳味噌体操になっている、という年寄りのボケ防止習慣を持ち出して、これでいいのよ、と自己肯定する。