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Tony Allenを永遠に紡ぎ続けるための断章集 Vol. 2

先日突然の訃報で少なくない音楽ファンを動揺させたナイジェリア出身のドラマー、Tony Allen
訃報が飛び交った日から断続的に書き続けているうちに、”アフリカ(系)の〇〇を代表/象徴する存在”について書く事に別の意味が宿るような事態が起きてしまった。繰り返されてきた悲劇が今回で最後になる事を祈るとともに、本記事のみならずこのnoteの全てそして私の生活そのものもアフリカ系の偉大なるミュージシャン達が築き上げてきたものの上に立っている事を思えば、責務としてひとつのアクションとして、フロイド氏の事件に端を発する運動、また以前より続いている #BlackLivesMatter 運動へのチャリティのガイドとなるKozue Satoのこの記事を紹介しておきたい。

また、様々なアーティストやレーベルがBandcamp上での収益を関連団体に寄付する動きも起きている。私は昨年の年間ベストでも取り上げたMourning [A] BLKstarclipping.のニューシングルを購入した。ストリーミング派、ヴァイナル派などで普段あまりBandcampは使わないという向きも、この機会に好きなアーティストのBandcampをチェックして欲しいと思う。

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さて。
ミュージシャンの追悼記事の多くはそのキャリアを年代順に追ってハイライトをピックアップし、影響力を語るというものだ。それはいうなれば編年体的な手法と言える。
では紀伝体にあたるのがどのような手法かと言えば、例えば時に年代順や共通理解としての歴史観よりもそのミュージシャンの主観が優先されるカヴァー・アルバムといった形が近い趣を持つのではないか。おそらくこの後出てくるのではないかと思われる、オルタナティヴなヒップホップやIDMのアーティストによるサンプリングの手法をもってした追悼は、楽曲全体をカヴァーするよりもその歴史観の捻じ曲がりが一層大きくなる事だろう。
トニーが音楽界にもたらした影響を考えた時、そのサンプリングという手法を用いる界隈へのそれは一層大きく重要だ。であるならば、文章の側からも編年体より紀伝体的アプローチがあって然るべきでないかと考え、共演アーティスト(及びソロ)別に世間的重要度よりも個人的興味を優先させていくつかのアルバムをピックアップ、またそれぞれの作品も最も一般的な形に拘るのではなく私が所持するフィジカルフォーマットの内容に準じ、その並びが歴史を成す事や影響力を炙り出すよりもあくまでその個々の作品にフォーカスしたレビューを言わば断章として切りっぱなしのまま並べたのが本稿である。
この個々のレビューの中のどれか一つでもTony Allenという偉大なドラマーの世界へ入門あるいは振り返る入り口となり、読者諸氏それぞれのTony Allen観を育む一助となれば幸いだ。

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with Damon Albarn

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Oasisとブリット・ポップの2枚看板として激しく争いながら表舞台に躍り出るも、その後USオルタナやトニーとの共演に通ずるアフリカ音楽への接近と独自路線を歩むロック・バンドBlurのフロントマンとして、Danger Mouseとタッグを組んでヒップホップに接近しUS進出も成し遂げたGorillazの中核として知られるDamon Albarn
ひょっとしたら、リアルタイムでFela Kutiとの活動を追っていた向きからは軟派な若造とでも(といってももうキャリアは30年になる)、あるいは逆にMoritz von Oswald Trioへの参加辺りから遡ってトニーを知った向きからは大味なロック・バンドの人、というイメージかも知れぬ。
ブリット・ポップ全盛期の作品こそ、その中でのクオリティはともかく軟派・大味という印象を抱くのも無理からぬものだが、90年代末頃にUKヒットチャートのトレンドに背を向け始めてからは、フェラやモーリッツのファンのニーズも満たすような音楽的好奇心を広げた活動を行っており、トニーとの邂逅も必然と言える人物だ。

The Good, The Bad & The Queen (2007)

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LP / Spotify

BlurのDamon Albarn、元The ClashのPaul Simonon、元The VerbのSimon Tongというロック史に燦然とその名を輝かす面子にトニーが紛れたバンドとしての作品。

が、「Song 2」+「London Calling」+「Bitter Sweet Symphony」+「Zombie」のような激烈でキャッチーでエナジーに溢れたレベル・ミュージックとしてのロック、というイメージを抱いて臨むと、率直に言えばそれは裏切られる。
本作の軸はあくまでデーモン・アルバーンのソングライティングと歌唱で、世界で最も日照時間の短い大都市ロンドンを擁するUKの面目躍如(?)たる陰鬱で時にディストピアめいた曇天を描くに必要なテクスチャーとして他のメンバーが集められた、という様相。

さらに率直に加えればトニーはこの中で最も登場回数が少ない。ドラム自体現れない楽曲もあるし、一般的なドラムセットの音ではなく仮にそれが生演奏でもトニーである必然性の薄いプレイ、果てはトニーを呼んでおいて明白に打ち込みもしくは非常に強いエディットが施されている曲もある。
しかしトニーを念頭に置くとなかなか面白い打ち込みもしくはエディットのアプローチだなと思わせるものも。
「Herculean」「Behind The Sun」と続く2曲はどちらもドラムは入っているが明らかに生演奏そのまま(にコンプやEQをかけた程度)では無く、前者はトニーのイメージで打ち込んだ可能性が高いか?後者はトニーの生演奏を元に波形編集やクオンタイズ等で弄った可能性が高いか?と思われるが、この辺り当時デーモンとはGorillazでも密接な作業を行い大ヒットを飛ばし、MF DOOMやGnarls Barkleyでも活躍して一躍時の人となっていたDanger Mouseのトニー観ひいてはアフロビート観が透けて見えるという点でも面白い。
それは結果的にFela Kutiのアフロビートとは全く違うものになっているが、これだけアクの強いトニーの性質を残しつつもコード進行の動きと歌メロを前提とした、しかもダウナーな楽曲の中でもこうハマるのだというのは新鮮な発見がある。

また、全体の割合としては少ないが面子から派手なサウンドに期待をした者のそれを多少は満たしてくれるタイプの楽曲もある。「Three Changes」におけるポール・シムノンのダビーなベースとトニーのアフロビートなドラムの絡み合いはリズム楽器を演奏する者やビートメイカーにとって興奮間違いなしのグルーヴだ。
そして本作で最も大きな収穫は間違いなくバンド名およびアルバム名を冠した最終曲だろう。
ネタをバラしてしまえばクリックなしの演奏でどんどんとBPMを上げるだけでカタルシスに持ち込んでいく構成なのだが、終盤の展開を覚えていて聴くと、そのカタルシスへ向かう過程という匂いが序盤から充満している事にニヤリとしてしまう。
トニーのドラムはアフロビートの典型的なパターンでありながら、コードも歌メロもヴォーカリストの声色もフェラでは絶対にありえない陰鬱さを備えているというのに。同じBPMで反復し続ける事で高揚を生み出したフェラのアプローチと全く逆にBPM自体を上げていってしまうというのに。トニーらしさがトニーのこれまでの仕事らしくない形で存分に発揮されているのはそれだけで感動的でさえある。
サイモンのギターがここに来て爆発しているのも特筆すべきで全員の個性が潰し合わずに際立って表現された素晴らしい演奏。


Rocket Juice & The Moon (2012)

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LP / Bandcamp / Spotify

再びデーモン・アルバーン旗振りのバンドに加入。
今回はRed Hot Chili PeppersのFleaを招いた3ピースで、あくまでゲストの名目だが多くの曲にラッパーM.anifestとファンク・ブラス・バンドHypnotic Brass Ensembleが準メンバー的に参加。その他Erykah Badu、Fatoumata Diawaraらも参加している。
ちなみに2曲目「Hey, Shooter」にはThundercatが担当楽器明示の無いままクレジットされており時折議論になるが、個人的には音色からもフレージングからもベースはFleaのままな可能性が高いと考えている。おそらくバックヴォーカルとしてのクレジットだろう。

The Good, The Bad & The Queenの1stにおいてはいくつか素晴らしいPaul Simononとの絡みも聴けたものの、全体としてはトニーのプレゼンスが低く期待に満たなかった向きも今作は安心していい。全曲でトニーが思う存分アグレッシヴなプレイを披露している。
そして楽曲としてこそ例えば「Zombie」+「Can’t Stop」とでも言うようなロック・キッズも沸かせるキャッチーなファンクという傾向は無いものの、ベーシストやドラマー、あるいはビートメイカーからの期待は十分以上に満たせるFleaとの絡みが全面に渡って聴ける。ビートメイカーにとっては剥き出しのドラムパートが多くサンプリング素材としても注目だ。

ファンク・ロックの名手とアフロビートの創造主のコンビという期待は「Hey, Shooter」「Follow-Fashion」「Rotary Connection」「The Unfadable」「Fatherless」といった楽曲が満たしてくれる。
これらの分析に文字数を割くのもやぶさかで無いが、ここからの晩年になってしまった時期においてテクノ/IDM/エレクトロニカ系との共演が増えた事を思うと、例えば冒頭「1-2-3-4-5-6」でトニー自らがタイトルの数字をカウントする事でアフロビートに内包されたスウィング感が炙り出されている点、GB&Qと違いデーモンは概ね後景に退いてノイジーなシンセを鳴らす事でトニーのハイハットワークがシンセ・ノイズによるアクセントと似た効果を持つ事が明らかになる点、直接的にテクノ文脈のSci-Fi感をもたらすシンセと絡む「Night-Watch」などがより興味深い。
変則的なダブ「Check Out」やM.anifestとM3nsaという2人のラッパーもリズム楽器としての役割を担って構成される「Chop Up」から垣間見えるものもまた今聴き直すとこの後の活動に繋がっている事が明白で面白い部分だ。


The Good, The Bad & The Queen - Merrie Land (2018)

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LP / Deluxe LP+CD / Bandcamp / Spotify

未だデーモンの頭の中にこのプロジェクトの続編があった事が驚きである。2018年、セルフタイトルでのデビュー作から11年ぶりの2作目。
先述したような"「Song 2」+「London Calling」+「Bitter Sweet Symphony」+「Zombie」”を今度こそ!という期待を持った者がどれだけいるのかわからないが、そんな声がデーモンの耳に入っていたとしても例の如く当然のように今回も無視されている。

が、プロデューサーがヒップホップ畑のポスト・プロダクションありきなDanger Mouseから、70年代のDavid BowieやT.Rexを支え近年ではボウイの遺作『Blackstar』にEsperanza Spalding『Emily’s D+Evolution』といったロックとジャズの橋渡し的作品で再度脚光を浴びているTony Viscontiに変わった必然故か、本稿の主役トニー・アレンのプレイを求めるドラマーを筆頭に楽器奏者であるとか、メンバー中3人がその歴史の重要人物として名を連ねるUKロックのファンであるといった、リスナーの属性からとっかかりになりやすい部分が増していて、前作は期待外れに聴こえたが今作には満足、という向きも少なからず居る事だろう。

まず楽器奏者からの聴き方としては、シンプルにほぼ全ての曲で楽器隊各々が素直な生演奏で素直に個性を主張している点でわかりやすさがある。特にドラムが登場さえしない楽曲も多かった前作に比すとトニーファンの満足度は段違いだろう。そしてそのドラムと絡むPaul Simononのベースも、The Clash時代で言う「I Fought The Law」「Rock The Casbah」といった激しいパンク・サイドの有名曲を思わせるプレイこそ少ないものの、パブリック・イメージの一角としてもパンキッシュなプレイに引けを取らぬ認知を誇る「The Guns Of Brixton」「If Music Could Talk」といったレゲエ/ダブの影響が色濃い側面は全編を通して非常に良く出ている。このメンバーでバンドが結成されるとアナウンスされた2007年にリズム楽器奏者が抱いた期待が11年越しに満たされたとも言えるかもしれない。

ただ一方で、瞬間最大風速では先のレビューでも言及した2007年作の最終曲における後半の展開ほど強烈なものは無い。また、トニー・アレンが前作以降の活動でテクノ/IDM/エレクトロニカ畑とのコラボレーションをより旺盛に行っていた事を思えば前作におけるデンジャー・マウスが施したポスト・プロダクションによる実験のアップデートを聴きたかったという向きもあろうが、本作も決してポスプロの重要性が低いrawな作品とは言い難いとしても、ヒップホップやIDMといったエレクトロニック・ミュージックのプロデューサーから興味深い視線を向けられるようなリズム処理は前面には出ていない。それぞれを勘案するとテクニカルな観点からは痛し痒しと言えなくもないのだが、2作のどちらに軍配を上げるかとなると本作を選びたくなるのは、トニー・ヴィスコンティを含めUKロックのレジェンドが集結したスーパー・グループとしての伝統の継承性が強いからだ。

まず冒頭のタイトル曲からして明白だが、本作のサウンドコンセプトには確実に中〜後期The Beatlesスタイルの志向がある。メロトロン、レズリー・スピーカーを通したギターや鍵盤、ボードヴィル調のピアノ、室内楽的な管弦の導入、とリズム隊の上に乗る楽器は編成からプレイスタイルからエフェクト使いまで悉く中〜後期ビートルズだ。更に2曲目「Gun To The Head」のアウトロでは早々に中期ビートルズの象徴たる『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』の最終曲「A Day In The Life」のアウトロを模してオマージュに近いものさえあると表明。
その他軽欝状態の初期The Whoといわんばかりの趣でオールド・ロックンロール・リフを調理した「Drifters & Trawlers」、ヴィスコンティが手掛けたデヴィッド・ボウイ『Low』ばりの展開と70年代前半Pink Floyd的展開をトニー・アレンとポール・シムノンがらしいプレイを聴かせるリズムの上で交差させる「The Truce Of Twilight」と、英国が紡いできたロックのビッグネームの名をビートルズ以外にも数多く過ぎらせる。

USへの波及は90年代から低調になっていたが、それでもここ日本等世界の数多くの国にロックのフロントラインはここにありと主張してきた英国のロックにとって、10年代とは振り返ればかつてない程に低調を迎え苦難のディケイドとも言える10年だった。
そんな時代にベテランが集まって自身らより年長のビッグネームへのオマージュを散りばめた作品とあらば、保守的と思われるのも致し方ないかもしれない。実際ロックにカッティングエッジな性質を求めるリスナーを必ずしも満足させる作品とは言えない。
けれども、サウンド面としても10年代のマイルストーンの一つと言える『Blackstar』を手掛けたヴィスコンティがその勢いを持ったまま手掛けたサウンドでUKロックの伝統が、その伝統の中にあまり類例の無いタイプのドラマーであるトニー・アレンが個性を存分に発揮したプレイの上で紡がれる様は総体として確実に独自性を宿しており、十分に今後も聴き継がれる価値のあるものに仕上がっている。


with Angelique Kidjo

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トニーの、フェラの、つまりアフロビートの生地ナイジェリアと国境を接するベナン(かつての日本語表記はベニン)出身のシンガーにしてユニセフ親善大使も務めるなど音楽の枠を超え当地を代表する存在。
レコーディング・キャリアは40年近くに及ぶが、商業規模をグッと広げたのは80年代末から90年代初頭にかけてのいわゆる”ワールド・ミュージック”ブームの頃。”ワールド・ミュージック”とは英語圏以外の音楽を全て雑に括ってしまうような適切とは言い難いタームだが、ここで紹介するトニーの最晩年を彩った2作はアフロビートに影響されたロック・アルバム、”サルサの女王”の作品集と自らの出自であるアフリカの、ベナンの、枠にとらわれないカバー集であり、それはさも”ワールド・ミュージック”の雑さを逆手に取った反撃であるかのようにも映る。

Remain In Light (2018)

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LP / Spotify

お蔵入りにした(というか出すタイミングを逸した)2018年年間ベスト用に書いていたものをベースに一部加筆修正

”文化盗用”という問題を考える時このアルバムは構図から一層興味深さが増す。”文化盗用 (cultural appropriation)”というタームが音楽業界で”現在に通ずる形”として最初に話題になったのは1986年Paul Simon『Graceland』であるという認識で構わないと思う(無論それ以前にジャズというジャンル内や黒人ブルースマンが白人ロックバンドに対して「俺たちのパクリじゃないか」という言説が多々見られた事、そしてそれに一定以上の正当性がある事も承知している)が、本作のオリジナルであるTalking Headsの『Remain In Light』はそれに先んじること6年、1980年に白人主体のロックバンドがはっきりとアフリカ由来である要素を多分に取り入れている作品だ。

つまり、主として”文化盗用”の際に問題となる、有色人種→白人という搾取構造を見出される構図で作られたアルバムを、ベナン出身の血筋もアフリカ系なベテランシンガーがカバーする。これは、マイノリティが是であるという立場に立った時、奪われたものを奪い返す構図にも見えよう。
ここで少し私の”文化盗用”に対するスタンスの一端(あくまで一端である)を示しておくと、日本人である私は国際的には白人から搾取される有色人種という括られ方も有り得つつ、日本国内では在日朝鮮系やアイヌ(私は所謂”開拓民”の子孫として北海道に生を受けたため、とりわけアイヌとの関係を強く考える責務がある)、また琉球の方々に対しては搾取する構図というのが否定しようもなく存在した(未だしている)日本人、倭人、大和人という属性でもある。故に”文化盗用”という批判が起こった時に、まずは一度その批判を受け止めねばならない責務がある立場だと考えている。

しかし、こと音楽作品に関しての”文化盗用”はまた難しい。いや、各々の専門領域で皆そう考えているのかもしれないが、しかしそれにしても音楽というのはどのジャンルであってもその歴史において引用や時に剽窃、換骨奪胎の累積に依る割合が強い文化ではないか。
その点に留意して”文化盗用”を考える時、本作を言わば弱者が強者から奪われたものを奪い返したと、ある種義賊的にヒロイックに称揚する事が正しい…いやどんな立場でも絶対的な正しさがあると考えるのは危険な事だが、リベラリズムの社会的な観点と尺度を限定してなお正しいと言えるのか。その辺りを考える良い例に本作は成り得る…と思っていた。実際に針を落とすまでは。

端的に結果から言えば、これは38年前に血気盛んな20代後半の若者たちが手練を集めて奮った野心が、38年後に44歳を参謀に迎えた58歳に片手で捻り落とされるドキュメンタリーである。それはもう暴力的なまでに。

「Born Under Punches」冒頭。主役のひとりコール&レスポンスが慄然と存在感を示すと、ビートが入り名匠Pino Paladinoによる原曲に対する鋭い批評性を伴った解釈のベースラインが総毛立つような迫力をもたらす。
続く「Crosseyed and Painless」、Magatte Sowによる分厚いパーカッションと老練なTony Allenが渾然一体となり壮絶なグルーヴを産む。その後もBlood OrangeことDev HynesがLightspeed Champion時代を思い起こさせるディストーションギターで空間を切り裂けば、隠し刀たる参謀Jeff BhaskerはKanye Westと共に編み出した伝家の宝刀オクターブ下のディストーションで分厚く加工されたシンセサイザーにより全てを貫く。

オリジナルとて何も4人の若者の勢いだけで生み出された訳では無い。破壊的な知性の象徴たるBrian Enoが取り仕切り、Adrian BelewやJon Hassellら場数を踏んだ面々も少なからず貢献した世紀のマイルストーンである。それがこうも無残に見劣りしてしまうものか。これ以降『Remain In Light』とはトーキング・ヘッズの作品ではなくキジョーのものになってしまった。
前述のように、多くの日本人は”文化盗用”の批判に対し耳を傾ける責務があり、その一人である私がこう易々と口にすべきでは無いがしかし、音楽において圧倒的強者とはキジョーであり、最早David Byrneらには憐れみすら感じる。本作の中で音楽的構図は社会的人種構造と完全に逆転している。そしてその中でのある種暴力を見せつけるようですらあるこの作品に対して、言い様も無い快楽を感じてしまう我が身をどうすれば良いのか。私は知性でもってこのアルバムと対峙する事を諦めた。


Celia (2019)

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LP / Spotify

2019年ベストアルバムにて執筆したものを加筆修正

ベナンを代表する存在からアフリカ大陸全体を代表する存在にまで登り詰めたこのシンガーは、齢60を目前にして遂に全地球を代表する存在になった
Talking Heads『Remain In Light』をまるまるカバーした前作に続いてのトリビュート・シリーズとも言える今作はサルサのレジェンドCelia Cruzのカバー。まさか前作がトーキング・ヘッズのカバーだと言う事で聴いておきながら「今回はサルサか、じゃあいいや」などとスルー出来るロックファンは居ないとは思うが、ついDavid Byrneを憐れんでしまった前作同様セリア・クルーズという巨星すらなんだか可哀想に思える圧巻の出来である。

前作から引き続きFela Kutiを支えたTony Allenをドラムに、そしてベースにはMeshell N’Degeocelloを招聘してアフリカ大陸及び地球最強のリズム隊を従えるだけでは飽き足らず、若き”King” Shabaka Hutchingsが前作でDev Hynesが聴かせた暴力的なギターソロに匹敵するブロウを聴かせる。
「La Vida Es Un Carnaval」ではトニーが何故自らがレジェンドと呼ばれるのかを誇示し、「Toro Mata」でのミシェルのベースは人間を辞めている。主役の「Quimbara」におけるポリリズミックなヴォーカルにはもう言葉が出ない。
南米系が北米へと渡って築き上げられたサルサという音楽を、自らの故郷アフリカと結び付けるだけに留まらずユーラシア大陸へと足を伸ばして中東やインドも匂わす豊かなアレンジが、これ以上無い演奏のこれ以上無い素晴らしい録音によって聴ける。人類の歴史のひとつの到達点

さて、ことさらにトニーに意識を向けるよりもそれぞれの作品総体を…としてレビューを並べている本シリーズではあるが、本作は一度他の記事で紹介しているもの、ここからはもう少しトニーのプレイにフォーカスして新たに書き加えていく。

1曲目「Cucala」冒頭。ここで演奏されるギター・リフはセリア・クルーズとキジョーの両者を知る者なら、北米で育ったサルサの典型的なピアノ・リフとアフロ・ポップの間のような形だとすぐに気付けるだろうが、トニーのドラムも同じような塩梅でロック的なエイトビートという北米のスタイルと自らの伝統芸アフロビートの間を意識しているように伺える。
全般的に本作のコンセプトの一つとなっているとも考えられる”北米とアフリカの距離感”だが、それはトニーのドラムに着目する事でより一層はっきり浮かび上がる。
例えば「Cucala」以外にも「Toro Mata」でのプレイもロックへの目配せがあると感じられる。Rocket Juice & The Moonのセッション中のアウトテイクを用いた、と言われても騙されてしまいそうなプレイだ。先述「La Vide Es Un Carnaval」はロックやヒップホップと並んで北米が世界に発信した、そしてアフロビート形成のいち要素ともなったスタイル、ジャズの影響をより強く表に出している。そして「Bemba Colora」はジャズの源流ニューオーリンズのマーチング・バンドをトニー流に解釈したものだろう。
こうしてアフリカと北米をミックスし、サルサの源流が南米に求められる事も考えると、その交差点として当然中米一帯が浮かび上がる。そして先述のようにユーラシア大陸にもアレンジのアイデアを求め手を伸ばしている事も加えれば、ジャマイカのレゲエやトリニダード・トバゴのカリプソにソカといった中米産のリズムを露骨には使わない形でありながら、地球(の音楽文化)の中心に中米を置いて考えるのはどうかと提示している作品にも思えてくる。

そのコンセプトを念頭にもう一度トニーのドラムにフォーカスすれば、アプローチが持つ今後の発展性という点で最も興味深いのはニューオーリンズ・マーチを翻案した「Bemba Colora」ではないか。
しかしトニーはその後を鳴らす事無くこの世を去ってしまった。ここからは私が、これを読んでいるあなたが、我々が、キジョーとトニーが提示した新たな音楽世界地図の航路を紡がなくてはならない。


結構ギリギリでやってます。もしもっとこいつの文章が読みたいぞ、と思って頂けるなら是非ともサポートを…!評文/選曲・選盤等のお仕事依頼もお待ちしてます!