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『silent』喪失の、その先にあるもの


 僕は障害者や難病をモチーフとした創作物が苦手だ。これは、僕が5才の時から自閉症の弟の兄であったり、4年前から難病をきっかけに車椅子ユーザーとなった息子の父であるということが少なからず影響していることは否めない。近すぎる、というのか、あらゆる作品はなるべく変なバイアスをかけずに観たいと思うのだけど、こと障害や難病をモチーフとした作品はなんとなく身構えてしまう。多くのそうした作品たちは、ある一定の期間を過ぎると忘れ去られてゆく。そしてまた新たな「障害」や「難病」モノが作られ、消費される。もちろん、「そういうモチーフで作品を作るな!」なんて野暮なことが言いたいわけじゃない。だけど、なぜそのモチーフを必要とするのか、作り手には自分の創作に対する覚悟と切実さみたいなものが最低限必要なんじゃないかと、これは自戒をこめて常々思っていることだ。
だから、中途失聴者の青年とその高校時代の恋人が再会する恋愛ドラマが『見逃し配信再生数 民放歴代最高記録更新』などと世間を賑わせていると知った時も「なんだ、またアカデミー賞の『コーダ あいの歌』や『ドライブ・マイ・カー』に肖った安易なドラマでも作られたのか」と、あまり積極的に観る気持ちにはなれなかったのだが、最近、我が家では『ドラマ部』なるものが発足しており、部長である妻の決定権は尼将軍政子を彷彿とさせる圧力がある。小四郎ほども気骨のない僕は、是非もなくTVerの見逃し再生数の最高記録を更に上乗せすることとなり、その社会現象を巻き起こした2022年冬ドラマ『silent』を観始めたのだったが・・・結論から言うと、この作品にはモチーフに対する切実さと取り扱う覚悟があった。つまり賞賛に値する作品だった。

生方美久という才能

 脚本の生方美久はこれが連ドラデビュー作ということなのだが、その才気は第一話から迸っていた。たとえば、他愛もない田舎の学生の登校シーンで交わされる雪にまつわる会話。雪にはしゃぎながら「しずかだね」と大声で言うヒロインの青羽紬に対して「うるさい」と笑顔で返す佐倉想。本来「うるさい」はネガティブな意味を持つ言葉なのに、恋人同士の二人の間では幸せな響きを奏でる。本当になんということもない冒頭の何気ないセリフが話のラストで反転する。再会を果たした二人だったが、難病によって失聴し音のない世界に生きていた想は、状況のわからないかつての恋人、紬に向かって咄嗟に手話で8年前の別れの理由を捲し立てる。そして想は泣きながら「お前うるさいんだよ」と紬のことを振り切る。同じ人が同じ相手に「うるさい」と言うシーンなのに、その言葉に込められた想いは真逆。「うるさい」の一言でこんなに泣かされるとは思ってもみなかった。全く、非の打ちどころのない初回だった。ある一点を除いて。それはスピッツのことである。主人公二人の思い出の音楽としてスピッツが登場するのだが、これはもうラストのテーマはスピッツがかかるものとばかり身構えていたら、流れたのはOfficial髭男dismの楽曲『subtitle』という、「そこはスピッツじゃないんかーい」と思わずずっこけてしまったのだが、僕はその浅はかさを第九話で恥じることになる。

作中でスピッツがちゃんとかからない理由

 第九話は想が久々に里帰りすることをきっかけに、回想で失聴に至るまでの実家での絶望が描かれる。まだ18才の青年が障害を理由に大好きだったものを一つづつ諦めていくさまは余りにも痛く、「誰がどう力になってくれるの?」という想の孤独は計り知れない。しかし、紬との再会を経て、想は向き合うことを恐れていたものと改めて向き合おうとする。その一番大きなものとは、やはり『音楽』だろう。かつて愛した音楽のCDたち、その一番きらきらした思い出の象徴はスピッツの楽曲だ。その歌詞カードを手に取り、想は音楽を目で、聴く。たとえ音が失われたとしても、そこにモノが在るということで過去の身体と今の身体が接続される。それを僕たちは思い出と呼ぶのではないか。そして、その思い出とは当然のことながら、ひとりひとり異なるものだ。もしこの物語でスピッツが大音量で流れ、安易な郷愁を誘っていたならば、この実家のくだりの後に紬の働くタワレコで新たなCDを買うという一連のシークエンスは果たして意味を為していたのだろうか?物語は問いかけてくる。「あなたにとってのスピッツは?」と。もちろん、それは人それぞれ、音楽だけに止まるものではない。

美しすぎる『春尾と奈々』の物語と第十話の絶望

 ことほど左様にどの回も観るべきところがあり素敵なのだが、特に第六話のラストで、想の音のない世界をこれまで支えてきてくれたろう者、桃野奈々の夢が最も残酷な形で現実となる、聞こえない耳に想からのコールの電話を当てるシーンには打ちひしがれた。そして、その奈々とかつて苦い別れ方をしてしまった、紬の手話の先生である春尾正輝との顛末を描いた第八話は、このドラマの白眉であることは誰もが認めるところだろう。しかし、この春尾と奈々の物語があまりにも素晴らしいことは、想と紬の物語に対してマイナスなのではないかとも思い始めていた。フルコースでいうなら、メインのアントレ前のポアソンでもうお腹いっぱいになってしまったような感覚。ドラマの構造的にも、二人の美しすぎる物語は、想と紬の現在と未来を示唆してしまっている。第十話、恐らく最もこのドラマで重要なこの回で、想は再び絶望する。もう一度、大好きな紬の声が聞きたいと。人は絶対に失いたくないものを失い、それを取り戻したいと思っても決して取り戻せないと分かった時、文字通り絶望してしまう。想の難病に特効薬がないのと同じく、この絶望に効く薬を、僕たちは誰も持ち合わせていない。唯一の処方箋は『時間』だろうか。そのことは春尾と奈々が証明してくれている。たとえ、今辛くて別れたとしても、生きてさえいればまたいつか会える。また会えれば、今度は一緒にいるという未来も選べるかもしれない。安易に結ばれるハッピーエンドだけは観たくない。僕は大きな不安と小さな期待を胸に、最終話を待った。

最終話『変わったもの、それでも変わらないもの』というタイトルの意味

 最終話で提示された処方箋はやはり『時間』だった。しかしそれは、春尾と奈々の物語で描かれたような『未来』へと延びたものではなく、過去に遡る旅路だった。二人の思い出が詰まった高校の教室とは、変わらないものの象徴であり、擬似的にタイムマシンに乗ったと言っても良い。二人はこの場所に赴く前にとても大切なことを諭される。紬は想の親友で想の後に付き合った唯一の存在である戸川湊斗に、想は8年間の暗闇に灯りをともしてくれた奈々に、それぞれ見ている時間が違うと指摘される。そのズレのピントを合わせるために必要だったのが変わらない場所としての教室であり、体育館だった。人は変わらないものを目の前にした時だけ、変わりゆく自分自身を認識できる。教室や体育館では想像しにくいなら、映画やドラマや小説や音楽で考えてみるといい。12才の時に観た映画を51才で観ても、その内容が変わることはない。が、12才で観た時と全く同じ感動になるのかというと、それはあり得ないだろう。チープに見えたり、より素晴らしく見えたりするのは、その作品が変わったのではなく、観客である自分自身が変わってしまったのだ。紬と想は、この変わらないもの/擬似的なタイムマシンに乗ることで、初めて変わりゆくお互いの身体を見つめ合うことができた。黒板を使った目の合わない筆談から始まり、言葉を尽くしお互いを曝け出すことでやっと手話のコミュニケーションが始まる。迷い間違うことを前提に、それでも恐れず二人で歩むことを決めた二人の決断は、僕の危惧していたような安易なハッピーエンドには程遠い、とても静かで誠実な着地点だった。

パンデミックという喪失の時代に

 思えば生方美久の前作『踊り場にて』も夢を諦めた後の『喪失』をどう越えていくのかの物語だった。『踊り場にて』では「諦める」という言葉/希望や見込みがないと思って断念する、という一般的なとらまえを仏教用語としての諦念/明らかにみる、と反転させることで、ポジティブな今を生きるための物語として力強く描いていたが、『silent』では「そんな簡単に明らかにみれることばかりじゃないよ」という身も蓋もない現実を真正面から受け止め、更に厳しい喪失のそのさきを描こうとした。僕たちはこの疫病の時代に、誰しもが何かしらを失いながら歩みを進めずにはおれないこの時代に、このドラマの登場人物たちは最後に花を差し出す。それは奈々の手話のお裾分けのように、巡り巡って今、確実に『変わらないもの』として、僕にも届いた。

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