同町同丁目内引越し

僕は今年で50歳を迎えるのだけど、実はこれまでに21回引越しをしたことがある。単純計算で2,3年に一度引越しをしてる計算になるのだが、よくよく考えてみると結構な回数のように思える。別に親がサラリーマンで転勤族だったわけでもなく、かといって同じ街並みに耐えかねて衝動的に引っ越してしまうような、病的な飽き性でもない。それを証拠に、今までお付き合いした女性は妻を入れて3人だけだし、しかも皆5年以上とそれなりに長い。むしろ、引っ越しは面倒で好きじゃないくらいなのだが、人生はままならないもので、不可避に住処から追い立てられることもある。いや、他の人は知らないが、僕は今までに2度家を追い出された経験がある。しかも両方ともお寺の役宅という共通点があることに書きながら気づいた。我ながら不徳の極みである。

21回の引っ越しの中で、1度だけ同じ町内を引越したことがある。しかも同じ4丁目内で、だ。これも相当変わった経験なのではないだろうか。この同町同丁目内引越しが直近最後の引越しなのだが、なので、前住んでいたマンションは直線距離にして800m程の場所にある。この旧居に、僕と妻と息子は8年間住んだ。息子の誕生に合わせて引越したので、息子にとってみれば生家でもあるし、吉野家が2人から3人に増えた、僕たち家族が始まった場所でもある。

11年前、住み慣れた多摩から練馬への引越しを決めたのは妻だった。子供を授かったことをきっかけに、「子育てに優しく」「都心へのアクセスが今より良いところ」という条件で、いくつかの候補の中から練馬のそのマンションを妻が見つけてきた。僕はというと、車移動が多い仕事柄、動線が大きく変更されることが嫌で、もっと多摩に近いところを希望していたのだけど、思えばこの頃から妻の圧は増加傾向にあったのだと今気づいた。やはり、人ひとり胎内に宿すということは生半可なことじゃないのだ。僕の希望は加味されることなく、妻の希望100%の横綱相撲で寄り切られ、僕たちはその新築マンションへと越していった。

 新築マンションなどというと随分羽振り良さげな響きかもしれないが、実際には3階建ての低層マンションで、エレベーターもない。造りは鉄骨鉄筋コンクリートではなく、軽量鉄骨と呼ばれる木造に毛のはえた程度の安普請で、この手の建物は上下の騒音が激しい。うちは2階だったので上の足音に辟易しながらも、「まあお互い様だよね」とやり過ごしながら生活していたのだが、息子が産まれた後からは1階住人との壮絶なバトルが繰り広げられたりもした。古来、子供とは走る生き物で、これはあらゆる古今東西の映画でも子供が登場するシーンでは必ず走っているということからもまごう事なき世界の真実である。僕の息子も御多分に洩れず、ハイハイからヨチヨチに進化を遂げた後はドタドタと走り回るようになり、結果、下の住人からは管理会社を通じて毎月のように苦情を受けることになった。もちろん、居直るつもりは毛頭ないのだが、子供が子供たる所以は、本能と情動で駆動されている点であり、そういう生き物に対して口頭で何を言っても統御できるもではない。しかも何か悪いことをしでかしてる訳でもないので、闇雲に怒鳴り散らすわけにもいかない。1階の住人には申し訳ない、とはあまり思わなかったが、とにかくコールセンターのクレーム処理係のように数年間、苦情を受け流した。そんなこともあり、あまり好きじゃない建物だったが、一つだけ、やたらお風呂が大きくて、息子が赤ん坊の頃の沐浴も、少し成長してからの二人での入浴もすこぶる快適だった。やがて息子は幼稚園も卒園し、自宅から徒歩5分の場所にある小学校に通うようになった。

 小学生になった息子は地元の少年野球チームに入部した。僕の野球好きに影響されてか、物心つく頃から大のジャイアンツファンで、中でも一昨年引退された阿部慎之助選手の大ファンだった。希望ポジションはもちろんキャッチャー、のはずなのだが、当時は人見知りでシャイな性格だったため、充てがわれたセカンドをよく守っていた。それでも毎週末の練習は欠かすことなく、1,2年生の時は皆勤賞もとった。マンションの隣には小さな公園もあったので、時間のある時には僕ともよくキャッチボールをした。最初の頃は投げるボールがへなちょこで、捕ることもままならず、まあこれは完全に僕の不器用が遺伝してしまった為なのだろうから申し訳ないとしか言いようがないのだが、下手でも直向きな愚直さが愛おしくも思えた。そんなへなちょこボール使いが、2年も練習を積み重ねると見違えるほど上達し始めたのだから、やはり「努力は嘘をつかない」は本当である。下手にグラブの土手で彼のボールを受けようものなら、その日の晩御飯のお茶碗を持つのが苦痛なくらい、力のある球を投げるようになっていた。8歳の誕生日を迎える前の練習試合で初ヒットも打った。「将来の夢はプロ野球選手」叶うかは分からないが、夢も見ないことには始まらない。チームでキャッチャーもやりたいと宣言して、プロテクターを着けた練習も始めたばかりだった。平穏で順調な日々が永遠にも続くと、それは信じるより以前の、疑いようのない平凡な日常だった。

3年生に上がって間もない、2018年のゴールデンウィーク明けの5月12日、息子は不調を訴え、その一週間後には、もう歩けなくなっていた。国指定の難病「視神経脊髄炎」と診断名が確定したのは、そこからさらに1ヶ月後のことだった。

急性期の治療は順天堂大学練馬病院で行われた。ここも旧居からも新居からも1km圏内の場所だ。3ヶ月、大人も音を上げるような大変な治療と苦痛を息子はたった8歳で経験した。最初の2ヶ月は疼痛が酷くほぼ寝たきりの状態だったが、それでもリハビリ病院へ転院する2週間前くらいから、少しづつ車椅子を動かせるほどには回復し、初めての外出許可も貰えた。順天の小児病棟はルールが厳しく、入院中は病棟内では病院食以外のものを差し入れるのは禁止で、息子は3ヶ月近く娑婆の食べ物から遠ざかっていた。まず院内にあるタリーズコーヒーに行き、大好きなマンゴータンゴスワークルのタピオカトッピングを飲み、続いて、練馬高野台駅前にあるマクドナルドにて、これまた大好きなてりやきバーガーを食べた。どちらも半分以上残してしまったが、本当に美味しそうに、久々に笑顔で頬張っていた。

最後に、僕たちは旧居へと向かった。帰りたい、と彼が言ったからだ。真夏の太陽に背を押されるように、青空の下、車椅子を押しながら歩く。1kmほどの距離のはずだが、えらく遠くに感じたのは、押し慣れない車椅子のせいなのだろうか。やがて、これまた数えきれないくらい通ったいつものコンビニを通り過ぎて、僕たちは「家」に帰ってきた。
駐車場から、2階の僕たちの部屋を息子が見上げている。疼痛が残る弱った身体を車椅子から降ろして部屋まで連れて行くのは、やってやれないことはないかもしれないが、大きすぎるリスクの前に僕はあまりにも、無力だった。この世に生を受けて8年、寝起きして、ご飯を食べて、おもちゃで遊んで、歌って、踊って、走って、風呂入って、クリスマスにはサンタの、節分には鬼のコスプレした僕に怯えギャン泣きした、この家には、もう2度と入ることはないんだと、息子は知っていた。静かに泣く息子を抱きしめて、僕も泣いた。

これが、僕が同町内の同丁目内引越しという変わったことをした理由である。ちゃんと息子が家に帰って来れるよう、バリアフリーで尚且つ、元に通っていた小学校へ復学するため、なるべく近所でなければならなかった。結局僅かに学区から外れてしまって越境通学しているのだが、移動支援を受けながら、何とか4,5年生を無事に終え、昨日から新6年生として元気に通っている。
旧居と新居は大きな通りに隔てられており、たった1km弱の距離なのに引越してからは、ほぼ近くは通らなくなった。それでも偶に近くを通ることもあり、そうするとあのキャッチボールした公園などを見るとやはり後悔で胸が痛む。もっとたくさんボールを受けてやりたかったと、失ったものの大きさに途方に暮れることもある。だけど、もうここは地獄ではない。今日も車椅子の息子が元気に笑っている。妻の、少し甲高い声も悪くない。家族がちゃんと帰って来れたのだ。「いってらっしゃい」と「ただいま」と「おかえり」を繰り返す、当たり前じゃない幸せのリズムを今日も刻む。

#PS2021 #引越し #難病 #視神経脊髄炎


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?